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[陸遜]悲惨すぎる晩年、本当に憤死したのか?

2023年4月18日


 

陸遜

 

夷陵の戦い(いりょうのたたかい)(しょく)を打ち破る陸遜(りくそん)、彼の人生はそこがピークと言っても過言ではありません。なぜならこれほどの功績を上げながら、最期にはお家問題に巻き込まれて憤死したという晩年を迎えるからです。

 

陸遜

 

今回はこの陸遜の晩年について、少しばかり考察してみたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陸遜、丞相になるまでの経歴!

陸遜

 

ではまず陸遜の出世街道を簡単に見ていきましょう。

 

陸遜と孫権

 

222年に夷陵の戦いが起こります。この時に陸遜は孫権によって大都督に任命されます。

 

陸遜

 

まだまだ経歴がなかった陸遜の大都督というのは異例で、当初は周囲からやっかまれ、お世辞にも好かれているとは言えませんでした。

 

朱然と陸遜

 

しかし夷陵の戦いでの勝利から周囲は見る目を変え、その能力を認められました。その後、229年に上大将軍、右都護の官を授かります。またこの時に孫権は太子の後見役に陸遜を任命し、荊州と揚州の三郡の統治、軍事と国事の監督を委任します。陸遜は様々な仕事の傍らで太子の教育係も任されていたのです。

 

陸遜

 

さてさて244年、丞相になります。この時に陸遜は荊州牧・右都護・武昌での職務も引き続き担当を任されました。とても大切なお役目ばかりを任されていることから、陸遜に対する信頼が伺えますね。

 

ええ、ええ。

「任され過ぎじゃないかな?」と思うほどに、大事な仕事ばかり任されているのです。

 

 

 

呉にとって史上最悪の、二宮の変始まる

孫権の娘が大喧嘩 孫魯班、孫魯育

 

さて時代は進み、二宮の変というお家騒動が起こります。二宮の変は二宮事件とも言い、簡単にまとめると孫権の後継者問題が最悪の状況になったものです。

 

孫権に諫言する陸瑁

 

多くの配下たちが巻き込まれ、処刑、流刑などの裁きを受け、呉の弱体化が進みました。武将、文官、関わった者もいれば関わっていない者たちもいたでしょう。しかし事が大きくなり過ぎていた現状では、既に収集がつかなくなっていたのです。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

そしてこの騒動に陸遜も関わっているという讒言を受けたばかりに、陸遜は最後に憤死した……とされています。

 

 

陸遜の死は本当に憤死だったのか?

責められる陸遜

 

ここでちょっと考えたいのは、陸遜は本当に憤死したのか、ということ。この陸遜が憤死した、というのは史書に記されていることです。つまり正史で陸遜は憤死したとされているのです。ですが気になるのは陸遜の年齢、この時に陸遜は既に60を過ぎています。

 

呉の孫権

 

この二宮の変に関して、孫権(そんけん)の対応が酷すぎる、既に年を取り過ぎてボケていたんじゃないか、とまで言われますが、そんなボケも疑われる孫権と陸遜は一歳しか年齢に違いがありません。要するに陸遜は十分に高齢なのです。なので陸遜は「寿命」であったことも否定できないのではないか?というのが筆者の考察です。

 

 

難しい立場にあった可能性

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

しかしわざわざ史書にまで「憤死した」と書くからには、相応の理由があったと思われます。三国志は陸遜が書いた訳ではありませんから、陸遜という人物の記述をした人間が別にいるのです。ではなぜ「憤死」とされたのか。

 

陸遜

 

前述しましたが当時の陸遜は、何もかにもを任され過ぎです。国元にいないのに丞相にされて政治を任され、軍の統括も任され、外交の責任者でもありました。この状態で拗れに拗れた後継者問題までどうにかしてくれというのは、聊か陸遜頼み過ぎないではないでしょうか?

 

陸遜

 

もしかしたら陸遜の本当の死因は、こういった面倒ごとを一挙に任され過ぎた心労もあったのではないでしょうか。自分一人では考えられないほどの仕事を任され、その上後継者問題のごたごたで国力が減っていく一方。関わりたくもない問題に自分の家まで巻き込まれる……頭を抱えるどころではありません。

 

下手な人間であれば全てを投げ出して隠居モノです。

 

陸遜

 

だけどそんな中でも陸遜は国を見捨てなかった。それ故に心労が溜まり、既に年齢を重ねているのにここで寿命を縮めることになった。その姿を人々は憤死とした……きっと陸遜は、憤っていたに違いない……と。

 

そんな当時の孫呉の不安や国に対する憤りが、陸遜の最期に表れてしまったのかもしれませんね。

 

三国志ライター センの独り言

三国志ライター セン

 

憤死したと言われる陸遜の最期について、ちょっと筆者なりの考察を述べてみました。

 

 

しかしその上でもなお、陸遜の晩年は酷い状態に追い込まれていることは否定しません。それも踏まえて当時の人たちは「憤死」という言葉で残したのかもしれません。陸遜がその最期に国の未来をどう見ていたのか、それはもう誰も知る由もないのです。

 

参考記事:

・陸遜 wikipedia

・二宮事件 wikipedia

 

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陸遜の功績とは?荊州奪取のキーマンである陸遜の出世街道も紹介

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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