『史記』は前漢(前202年~後8年)の司馬遷が執筆した歴史書です。『史記』は後世の呼び名であり、最初の書名は『太史公書』。中身は「本紀」・「表」・「書」・「世家」・「列伝」で構成されています。
この形式は「紀伝体」と呼ばれ、後の歴史書にも使われました。そもそも『史記』とは何か?『史記』について語ると長くなるので、筆者は分けて語ろうと考えています。
今回は史記の構成の1つ「本紀」について解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「本紀」帝王の記録
「本紀」は大雑把に言えば帝王の記録です。『史記』を筆頭とした後の歴史書も始まりは、「本紀」からになっています。『史記』の最初は「五帝本紀」。
これは中国の開国伝説であり現在、信じる人はいません。大昔の人は信じていたようですけど・・・・・・
それが終わった後は殷王朝と周王朝を扱った「殷本紀」、「周本紀」が掲載されています。はっきり言うと、これも伝説のような内容が占めています。
具体例では「殷本紀」には殷の紂王が酒の池を作って、木に肉をつるした「酒池肉林」の話や「周本紀」には西周の幽王が愛人の褒娰を笑わすために諸侯を集めるための鐘を無駄に鳴らした結果、諸侯に背かれて命を落とした話があります。
「周本紀」が終わると「秦本紀」が出て、その後は始皇帝個人を扱った「秦始皇本紀」が登場します。
不可解な構成の「本紀」
「秦始皇本紀」終了後は、項羽個人を取り扱った「項羽本紀」となります。
ここで疑問が生じます。項羽は天下統一や皇帝になったわけでもないのに、なぜ本紀があるのか?一説によると、司馬遷は始皇帝の対立者として項羽が必要であり、後に前漢が出来上がるためにもその対抗者として項羽を省くわけにはいかなかった、と言われています。
その証拠に「項羽本紀」の次は「高祖本紀」・・・・・・つまり、劉邦の本紀です。「高祖本紀」終了後は「呂后本紀」・・・・・・劉邦の妻の本紀になっています。
やはり項羽と同様であり、どうして皇后に対して本紀が置かれるのか疑問視されました。これに関しては、劉邦の後を継いだ第2代恵帝から第4代後少帝が病弱・年少であったことから、呂后が摂政をしていました。
呂后は皇帝に準ずる権力を持っていたことから、「本紀」を設けられたと言われています。
消えた「今上本紀」!?
そして「本紀」最大の謎は「今上本紀」・・・・・・司馬遷が仕えた前漢第7代皇帝武帝の本紀が存在しないことです。『史記』の目録には「武帝本紀」と記されており、「武帝本紀」の本文も存在していますが、これは矛盾しています。
なぜなら、武帝というのは死後にその皇帝に付けられるおくり名なので、司馬遷が『史記』を執筆していた時に呼ぶはずがありません。日本で例えるのなら、今の天皇を令和天皇と言わないのと一緒です。
また、司馬遷も『史記』の内容紹介に該当する「太史公自序」で「今上本紀」を書いたと記しています。現在、「武帝本紀」は『史記』の中にある「封禅書」をもとに、後世の人が創作したと研究の結果が出されています。
「今上本紀」はどこに消えたのでしょうか?
今でも永遠の謎とされています。
漢代史ライター 晃の独り言
以上が『史記』の構成の1つ「本紀」についての解説でした。筆者は大学時代に『史記』の翻訳本を半年間かけて読みましたけど、頭にはほとんど入りませんでした。
通学電車の中で少しずつ読み進めていき、「本紀」だけで2か月かけたことだけは記憶しています。この間、友人にその話をしたら、「もう1度やってみなよ!」と言われました。
もう無理・・・・・・
※参考文献
・小倉芳彦「司馬遷―「記録者」の意義と生涯―」(『世界の歴史3 東アジア文明の形成』 筑摩書房 1960年所収)
・宮崎市定『史記を語る』(初出1979年 後に『宮崎市定全集5 史記』岩波書店 1991年所収)
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