それが楊修です。
定軍山は蜀と魏の間にある漢中の前線拠点でした。
漢中の地名は現在の陝西省にも残っています。陝西省は赤土が広がり、現在でも肥沃な土地とは言い難い場所です。
しかし、当時は都の長安(現:西安)に近く、曹操から見れば何としても劉備軍を撃退しておきたい要衝だったのです。
当時の戦況
弓の名手として名高い黄忠。
彼は劉備に使える武将で曹操配下の夏侯淵を追い詰めます。
万事休すとなった夏侯淵は曹操に援軍を要請。
しかし、曹操は近しい存在の彼を救うことなく、事態を見守ります。
まさに劉備の進軍が開始しようとしていた最中に天幕で楊修と曹操が計略を巡らすのです。
思案投げ首の曹操
引くに引けない状況になった曹魏。
夜中に暗号を伺いにきた夏侯惇は、たまたま曹操が漏らした”鶏肋 ”を暗号と勘違いし、伝令を発します。鶏肋とはスープによく入っている鶏のあばらです。
現代の中国で鶏肉の地位は低くく、中国人は鶏肉より豚肉の方が好きです。中国の12番目の干支がイノシシではなく、豚であることからも中国人にとって豚はとても身近な存在なのです。
閑話休題。話を楊修の死因に戻しましょう。
頭の切れる楊修は夏侯惇が”鶏肋”と暗号を伝えるのを耳にして、撤退の準備を始めます。参謀が故に賢しいのは考えものかもしれません。
深読みした楊修は”鶏肋”の一言で「食べる部分(勝つ見込み)も少ないが、捨てる(撤退する)には惜しい」と思い、早々に部下の退却を命じます。
これを聞いた夏侯惇。
本当に曹操様の気持ちがわかってらっしゃると感嘆します。
夏候惇も黄忠に殺された夏侯淵と同じ曹操の近親者。されど武芸は立つが頭は切れません。
さすが参謀と感心するだけで主君の元に帰ります。
楊修の死因とは?
時に主君と参謀の意見は対立します。
劉備軍に追い詰められている曹操側の視点に立つと、たとえ夏侯淵の首が取られて敗色が濃くなっても留まるべきであるという考えが先に立ちます。一方の参謀側の楊修はできるだけ味方の被害を抑え、楽に勝つことが良いと考えます。
もしかしたら、曹操の覇道(武力をもって制圧する)が楊修の行動を許さなかったのでしょう。
敵に弱腰と見られる退却を選択した楊修を曹操は処刑します。あまりにも残酷と思われる読者もいるかもしれません。しかし、時は乱世。士気を低下させることは敗北に直結するのです。
夏侯惇に罪はあるのか?
元を正せば、曹操が何気なくつぶやいた”鶏肋”を暗号と勘違いした夏侯惇にも責任はあるかもしれません。
曹操は暗号のつもりで鶏肋と言ったのではなく、夕飯のスープに鶏が入っていたから呟いたにすぎません。
現代でいえばTwitterに投稿するようなものです。夏候の姓を持つ武将は曹操の近親者で重宝されています。仮に夏侯惇の”伝令ミス”があったとしても曹操に処罰されることはないはずです。
曹操の部下には正直なところあまり切れ者がいません。特に曹操が大事にしたのは忠義です。
一般的に日本では悪役イメージの強い曹操ですが、為政者という観点からすると非常に優れた人物です。現代社会に生きていれば、日本と北朝鮮の国交回復など朝飯前でしょう。乱世ゆえに非道な面もありますが、曹操が成した偉業を称える漢民族は多いのです。
三国志ライター 上海くじらの独り言
夏侯惇に罪があったとしても楊修が戦場でとった行動は主君としては好ましいものではありません。
まだ攻めるか、撤退するか、決めかねている状況で独断したのは忠義に欠けるとそしりを受けても仕方がないのです。
曹操からしてみれば戦わずに逃げを選ぶのかと逆上する気持ちも理解できます。さらに戦で負け越していたわけですから、平時よりも冷静さを失っていたのは事実です。参謀といえども人の心までは操れなかったようです。
参考図書:湖南省地図冊(中国語) (中国分省系列地図冊)
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