後漢第十四代皇帝の献帝が都である長安を脱出したのが西暦195年のことになります。長安では権力者の李傕(りかく)と郭汜(かくし)が主権争いを繰り返していました。その隙を突いて献帝は配下の董承の導きによって長安を脱出し、以前の都である洛陽を目指します。
李傕と郭汜は協力し、これを追うことになりますが、白波賊の頭目である楊奉らの力を借りて献帝は李傕らを打ち破りました。しかし、執拗な李傕の追撃に遭います。献帝はギリギリのところを河内郡太守である張楊の援軍に助けられてこの迎撃に成功します。こうして献帝は廃墟と化していた洛陽にようやく帰還したのです。
建安元年(196年)
董昭の仲立ちで張楊と誼を通じていたのが曹操です。曹操は前年に呂布を打ち破り本拠地である兗州を取り戻していました。曹操はその勢いで洛陽に兵を繰り出し、献帝奪取を狙います。
この企みを妨害したのが献帝の外戚となる董承と寿春に本拠地を置く袁術です。曹操は縁戚の曹洪(そうこう)に兵を託して洛陽に寄せますが、董承・袁術の連合軍に敗れて撤退しました。袁術が本腰を入れて献帝を迎え入れるつもりであればここが大きなチャンスだったと思います。
献帝を寿春まで連れ出すことも可能だったことでしょう。しかし袁術は別な方面に力を注ぎます。
建安元年(196年)
揚州を地盤とする袁術は隣接する徐州の支配に力を注いでいました。徐州は前年に牧である陶謙(とうけん)が病死し、客将だった劉備が跡を引き継いでいましたから混乱してつけ入る隙がいくらでもありました。実際に袁術は劉備の軍をこのときに打ち破っています。
しかし、さらに隙を突いて徐州を奪ったのは天下無双の猛将である呂布でした。呂布は袁術の先鋒である紀霊と劉備の和睦を強引に進めます。これによって袁術は劉備の勢力を一掃することができず、
さらに徐州を手に入れることもできませんでした。袁術は南にある劉繇の勢力を牽制することにも力を割かねばならず、なかなかひとつのことに集中できない情勢です。袁術がこのとき南の牽制のために兵を向けさせたのが孫策です。
建安元年(196年)
献帝が洛陽に着いても権力闘争は止まず、今度は董承と楊奉がいがみ合います。武力で劣る董承が奥の手としたのが兗州牧である曹操との結託でした。曹操は八月に献帝を勢力下の豫州・許に移します。これはまさに遷都です。
油断していた楊奉は曹操の軍に敗れて袁術を頼ります。ちなみに十一月には呂布に追われた劉備が曹操を頼っています。袁術旗下の孫策は劉繇を破って長江以南に兵を進めていました。袁術は猛将・呂布との政略結婚のための外交も進めています。
献帝擁護の価値
冀州の牧である袁紹も献帝擁護を一時は考えたといわれていますが、自身の動きを縛られることを恐れて二の足を踏んでいます。袁家は漢帝国の支配に疑問を感じていたのでしょう。袁紹も袁術も本気で献帝の擁護には動いていません。
しかし曹操は献帝を握って朝廷を支配します。これにより多くの勢力が曹操に靡いたことでしょう。荀彧のような漢帝国に忠誠を誓う名士たちも続々と曹操に従うようになります。袁術が本腰を入れて献帝擁護に力を注いでいれば曹操には遅れを取らなかったことでしょう。
袁術は大将軍、もしくは三公の位に就き政権を独占していたに違いありません。ですが袁術は献帝の価値よりも領土拡大に目を向けてしまいます。そして滅びの道を進んでいくことになるのです。
建安二年(197年)
この年の一月に袁術は皇帝となります。袁術は漢帝国に対して完全に見切りをつけたのです。これは先天性のある選択でしたが、早合点でもありました。曹操は巧みに朝廷の威光を傘にして諸侯に命令を下すようになります。
逆賊である袁術を討つようにとの指示です。五月には袁術は呂布の軍に敗れ、さらに九月には曹操の軍に敗れて致命傷を負います。曹操の勢力下になった劉備に攻められ、旗下の孫策に裏切られ、袁術の力はどんどんと削がれていくのです。そして建安四年(199年)六月に袁術は失意のもとに病死します。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
袁術が董承と組んで曹洪の兵を迎撃したときに大きなチャンスがありました。ここで漢帝国の存続のために力を尽くしていたら袁術が天下を獲っていたのではないでしょうか。少なくとも曹操の台頭は防げたはずです。
しかし袁術は独立の道を選択しました。これが袁術が英雄になれなかった決定的な瞬間でもあったと思います。
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