陶謙(とうけん)と言えば、三国志演義では、劉備(りゅうび)に徐州を譲る、頼りない好好爺として知られています。また、コーエー三国志初期の陶謙は、気の優しいお爺さんのような顔グラです。しかし、実際の陶謙は、演義の好好爺とは全く違う、野心に満ちた男であり、よせばいいのに曹操(そうそう)にちょっかいを出して寿命を縮めた男でもあります。
この記事の目次
陶謙ってどんな人?
陶謙は、西暦132年に丹陽(たんよう)で生まれました。生まれつき、学問が好きで、行いを治めて秀才という役人採用機関に推挙されます。ところが、文官のように見えるイメージの陶謙は実は武官でした。
陶謙は軍事的才能も発揮
幽州刺史に任命された陶謙は、軍事的才能を開花させて、烏丸(うがん)や鮮卑(せんぴ)のような異民族との抗争を繰り返して、これを鎮圧しています。その後、涼州で韓遂(かんすい)が反乱を起すと、董卓(とうたく)や孫堅(そんけん)と共に、張温(ちょうおん)の指揮下で韓遂討伐に尽力して大きな手柄を立てました。その功績で、徐州刺史になると、徐州で暴れ回る黄巾賊を武力で鎮圧します。陶謙には、丹陽兵という出身地から引っ張ってきて自ら鍛えた無敵の軍勢がいて、この活躍より、短期間で黄巾賊は徐州から消えたのです。
幼い孔明や魯粛も徐州に避難していた
当時は、まだ、黄巾賊の残党が各地で暴れ回っている時期で、逸早く、平穏になった徐州には、各地から多くの避難民が雪崩れ込みます。その中には、幼い、孔明(こうめい)や、魯粛(ろしゅく)等が含まれていました。この事で、徐州は国力が高くなり陶謙は一躍、有力な豪族になります。
反董卓連合軍に加わらない陶謙の意図とは?
やがて、中央で霊帝が没し、勢力争いから董卓が台頭してくると各地の群雄は、反董卓連合軍を結成しますが、陶謙は、これには加わらず董卓に賄賂を送り、自分の地位を確保しつつ、勢力拡大に走ります。これにより、陶謙の支配地は、徐州から櫲(よ)州にまで拡大しました。ですが、この頃から、陶謙の態度に傲慢なものが出てきます。それまで、陶謙を支えた、有能な臣である、王朗(おうろう)や趙昱(ちょういく)を、各地に飛ばして、自分から遠ざけると、今度は、笮融(さくゆう)や闕宣(けつせん)という極悪な連中を自分のブレーンにしたのです。
陶謙配下は次第にオールスターに...
笮融は、ヤクザ同然に人殺しを平然と繰り返す凶暴な男であり、闕宣に至っては、下邳(かひ)で勝手に皇帝を僭称(せんしょう)するというエキセントリックな男、、とんでもないヤツです!
そんな事が出来るのは、袁術一人だけです、真似すんな!この二人の言いなりになった、陶謙の行動は当たり前ですが、次第にオカシクなっていきます。
陶謙の運命が変わる出来事
陶謙の運命を決定的に狂わせたのは、この自称皇帝男、闕宣でした。闕宣は、軽い火遊びのつもりで兗州の泰山郡で略奪するように陶謙に持ち掛けました。泰山郡は、山がちの土地で辺鄙な場所なので略奪しても、曹操はわざわざ、やってはくるまいと陶謙は高を括っていました。
曹操ブチ切れる
ところが、泰山郡の略奪を曹操は黙って見過ごす事はありませんでした。100倍返しとばかりに、曹操は、徐州でも豊かな澎城(ほうじょう)国に進攻します。ここには、広威(こうい)という前線基地がありましたが、ここは曹操軍の若き将軍、于禁(うきん)にあっという間に落されます。
曹操もブチ切れたが陶謙もブチ切れる
陶謙は激怒します、貧しい泰山郡の報復が豊かな澎城国では全く割に合わないそう思ったのです。
「曹操のクソガキめ、百戦練磨のわしの腕前を見せてやる」
陶謙は、自慢の丹陽兵を率いて澎城国に向かいますが、曹操は、ただのクソガキではありません、曹仁に別働隊を率いさせて陶謙軍を分断させると、陶謙の本隊に襲いかかります。
曹操にフルボッコされる陶謙
陶謙自慢の丹陽兵も、曹操配下の青州兵には、全く刃が立たず陶謙軍は壊滅し、陶謙は逃げに逃げて本拠地である東海郡の郯(タン)まで敗走して、門を閉じ、ガクブル状態になります。
「あわわわ・・曹操強いじゃないか、、どうしよう、ワシ殺される」
陶謙が引きこもったと聞いて、曹操は得意満面で、虐殺と略奪を繰り広げます。考えあぐねた揚句、陶謙は、公孫瓚(こうそんさん)に救援を願い出て、田偕(でんかい)と劉備(りゅうび)が救援に来ます。しかし、慢性的兵糧不足に悩んでいた、曹操軍は、これ以上は進攻出来ず撤退、田偕と劉備は、曹操と戦うまでもありませんでした。
劉備は陶謙の味方になる
田偕はやる事がないので帰還しますが、劉備は、落ち目の公孫瓚を見限って、徐州に留まり、陶謙に味方します、「曹操何するものぞ!」と士気が高い劉備に、陶謙は、期待を託して、櫲州刺史に任命して、丹陽兵4000を与える特別待遇をしました。
父を殺された曹操はまたブチ切れる
やがて、父を陶謙配下に殺された曹操は、怒りに燃えて、再び徐州に攻めてきますが、その前後に陶謙は病が重くなり、西暦194年に、62歳でこの世を去ります。この時に、息子ではなく、劉備に徐州牧を任命したのは有名な話ですね。
三国志ライターkawausoの独り言
それにしても前半は良臣に恵まれ、順風満帆だったのに、後半は悪臣を近づけて、曹操にちょっかいを出し、自分の首を絞めた陶謙、、演義には、最期の気の弱い陶謙しか出てきませんが、その理由が曹操に敗れて、自信を失いガクブル状態だった為だったとは意外です。今日も三国志の話題をご馳走様でした。