董卓配下で有名な人物は李傕・郭汜・李儒・華雄・呂布・・・・・・
他にもまだいるのですが、全部紹介しているとキリがないのでここでやめておきます。董卓配下で最も有名な人物は李傕・郭汜です。彼らは董卓の死後に朝廷で好き勝手な政治を行います。さて、今回は2人のうち郭汜の方を解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています
この記事の目次
幼名は郭多
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『英雄記』という史料によると、郭汜は涼州張掖郡の出身であり、郡は違いますが州が一緒であるため董卓とは同郷に当たります。
中平6年(189年)に董卓が何進の命令で洛陽に行った時についてきた武将の1人でしょう。『英雄記』によると、別名は郭多となっています。これはおそらく幼名でしょう。
曹操の幼名が曹満となっているのと同じです。1800年以上前の人で幼名が残っているのは、非常に珍しいことでした。
陳留・潁川での略奪
初平3年(192年)に董卓は王允と呂布により暗殺。この時、郭汜は同僚の李傕・張済と一緒に陳留・潁川方面を攻略していました。
目的は殺戮・略奪です!曹操に仕える前の荀彧は、郭汜たちが攻めてきたと知ると潁川からすぐに避難して、冀州の韓馥を頼ります。余談ですが、荀彧の説得を聞かないで避難しなかった人々は、郭汜たちに殺されました。
牛輔の最期
脱線したので話を戻します。殺戮・略奪中に李傕・郭汜のもとに董卓が、王允と呂布に暗殺されたという報告が入ります。それどころか呂布は李粛を先鋒に差し向けました。郭汜たちの奮戦により李粛は撃退されます。しかし兵士たちは動揺しており夜中に一部の兵士が反乱を起こしました。
もともとビビりだった董卓の娘婿の牛輔は、全部の兵士が反乱を起こしたと勘違い。急いで財宝をまとめると、自分が可愛がっている側近だけを連れて涼州に帰ることにします。
だが、牛輔は逃亡中に財宝に目がくらんだ側近により殺されました。
長安奪還作戦
さて、李傕・郭汜・張済・賈詡は牛輔が殺されたことを知って今後の方針について話し合います。ベストな方法は牛輔と同じように涼州に帰ることでした。しかし、董卓軍は今まで各地で殺戮・略奪・暴行の限りを尽くした軍隊。そんな連中を世間は許すはずがありません。
すでに各地では董卓配下の残党狩りも行われているというデマまで出回っており、兵士たちはビクビクしていました。待っていても呂布に殺されるだけなので、危険を承知で帰ろうと李傕は決めます。だが、それに賈詡がストップをかけました。
「今の状況では小役人でもあなた達を捕まえることは可能です。それならば、長安に行って董卓様の敵を討ちましょう。うまくいけば、皇帝を迎え入れることも出来ます」
賈詡の意見も間違っていないので、李傕・郭汜・張済は長安攻めに切り替えます。途中で元・董卓配下である王方・李蒙・樊稠と合流。
3人とも郭汜たちと同様、略奪に出ていたところ董卓暗殺の報告が入り、帰る場所を失ったのです。さらに胡軫・楊定とも出会います。やはり2人とも元・董卓配下です。しかし董卓暗殺後、王允に降伏していました。
だが、王允とは馬が合わず、董卓軍残党狩りのために出陣させられたことを機会にみんなと合流したのでした。こうして合流した残党は10万以上になったのでした。董卓軍残党は裏道から長安を襲撃!王允と呂布は不意を突かれてしまいました。
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