後漢という乱世に移りつつある時代。朝廷内では宦官が勢力を強めていました。
その証拠に宦官・蹇碩は軍のトップに就きます。
配下にはあの袁紹や何進をも従えていました。そんな蹇碩のストーリーを紹介していきます。
軍隊・西園八校尉のトップに就任する蹇碩!
後漢の時代、霊帝という皇帝がいました。黄巾の乱によって朝廷の権力が失墜し、もはや地方の武将の支援なくして国家を維持することは難しくなっていた時代です。
そこで提案されたのが軍隊「西園八校尉」の設立。8人のリーダーを選び、それぞれに役割を与えるというものでした。
そのトップが「上軍校尉」と呼ばれる位でした。上軍校尉はリーダー8人のまとめ役で皇帝からひいきにされていた蹇碩が選出されたのです。
西園八校尉とは別に大将軍もいましたが、蹇碩は大将軍の統率もまかされました。当時の大将軍は「何進」、黄巾の乱を平定したことで大いに名を挙げた人物です。そうした将軍たちのトップに宦官の蹇碩が就いていたことから、宦官勢力の強さが伺えます。
近衛兵として皇帝のボディガードに
中国では神話の時代から黄色の「黄」の字は皇帝の「皇」の字と発音も同じことから、皇帝を表す色として敬われていました。そのため、皇帝の住む宮殿の門も黄色に塗られ、皇帝を直接、警護する部隊は「黄門侍郎」と呼ばれました。
黄門とは皇帝の出入りする門を表し、侍郎はボディガードや警備といった意味に近いです。
その黄門侍郎に蹇碩が任命されます。また、当時の皇帝・霊帝が劉協(次男)を跡継ぎにしようと考えており、その劉協、つまり将来の皇帝候補の面倒を蹇碩が見るよう頼まれていたのです。このときから、蹇碩は劉協派に属していたのです。
実は他にも皇帝候補がいて、名を劉弁(長男)と言います。ところが霊帝は劉弁の性格がおちゃらけていたことから、手をかけていませんでした。劉協こそ、次の皇帝にふさわしいと考えていのです。
蹇碩は世継ぎ争いで殺された!?
霊帝が亡くなる少し前から次の皇帝を誰にするかで「何皇后」と「霊帝の母親」が対立。そもそも劉協の母親は皇后によって毒殺、幼い劉協を育てたのは霊帝の母親や蹇碩でした。
一方の劉弁は聡明ではありませんでしたが、何皇后の息子。何皇后は息子の劉弁を皇帝にできれば、自分が政権を握れると考えたのです。そして、兄は大将軍を務めた何進、バックボーンも控えていました。
このように蹇碩と何進が対立するのは火を見るよりも明らかでした。そこで蹇碩は董重を味方に付けます。反対に何進は袁紹を仲間に引き入れます。
ここに「宦官VS将軍」の跡継ぎ争いが勃発。ただの嫁姑のケンカが軍隊をも巻き込んだ大戦争へと発展するのです。
この時点で、まだ皇帝の霊帝は生きています。高齢か病気で死期が近かったのでしょう。劉協派の蹇碩らは皇帝の勅旨(公的文書)があったとして、劉協を次期皇帝へと推薦。やがて、皇帝が天に召されると蹇碩らは密かに反対勢力の何進を暗殺しようと企てます。
ところが何進の友達だった潘隠の口から秘密が漏れます。これをチャンスと捕らえ、大将軍・何進と妹の何皇后の手によって長男の劉弁が皇帝として即位。蹇碩サイドだった有力な宦官たちは何進サイドへと流れます。形勢は一気に逆転、蹇碩と董重一族は追いやられてしまうのです。ここに蹇碩の命は絶たれました。
三国志ライター上海くじらの独り言
蹇碩は霊帝に重宝されていたことから、出世街道を歩みました。
宦官が当時、勢力を強めていたという時世も手伝って将軍たちをも指揮するようになります。しかし、霊帝が亡くなると実質的に後漢は滅亡。
まさに蹇碩の命運は霊帝とともにあった言っても過言ではないでしょう。そして、新たな皇帝を立てた何進は排除しようとした宦官たちから疎まれ、宮中の「嘉徳殿」で殺害されます。とどのつまり、後漢時代は宦官と他の勢力との争いの繰り返しだったのです。
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