こんにちは。コーノヒロです。
今回は、前回の「三種の神器」の秘密の話に続き、ツクヨミの謎についてのお話です。
どうぞお楽しみください。
前回では、三種の神器の一翼を担う、八尺瓊勾玉は、過去に日本列島に存在していた、二つ王国、つまり、北陸の越王国と古代出雲王国と、その大王であったオオクニヌシを表象するものであるとお伝えしました。
さらに、以前から伝わっているのは、その勾玉は、「記紀」(古事記・日本書紀)や神話にある、ツクヨミを表しているということでしたね。
そして、ツクヨミ=天皇という図式を
「記紀」の編纂を命じた天武天皇(帝)が作り出したとも言われているのです。
そもそも、天皇即位に三種の神器を必要とする仕来たりを創始したのが、飛鳥時代の天武天皇(帝)とも伝わっていますね。
しかし、ツクヨミの存在感のなさが気になるのです。ツクヨミが天皇を象徴するのなら、もっと大きく伝わっていてもよいのでは?ということです。
しかし、歴史書や「記紀」や神話などにおいても卑弥呼の王弟も、ツクヨミも影の薄い存在です。
なぜでしょうか?探っていきましょう。
桓武天皇の野望?
ここで、戸矢学氏の著作を再度、参考にすると、「記紀」においては、ツクヨミの記述は、成立当初はもっと多くの記述があったのですが、作為的に消されたというのです。
その首謀者は?ということになりますが、
それは、平安京への遷都を行った桓武天皇(帝)だというのです。
どういうことでしょう?
桓武帝と言えば、平安時代初期の天皇として知られていますね。
794年に都を平安京に遷都し、以来、現在の「京都」が都として、千年に渡り、続いたと伝わっています。
その礎を築いた天皇と言えるでしょう。
つまり、日本史上、最も長く都が置かれた「京都」の街を創った天皇と言えますね。しかし、その桓武帝が、なぜ、ツクヨミの存在を影の薄いものとしたのでしょうか?それは、桓武帝の血筋にあるというのです。桓武帝は、天智天皇(帝)の血を引いていたという事実に注目したいのです。
天智帝の呪い?
天智帝は、天武帝の兄です。しかも二人は、同母の兄弟とするのが、通説となっています。
この二人については、確執があったことで知られています。
即位前の二人は、天智帝は、中大兄皇子であり、天武帝は、大海人皇子でしたね。
この二人には、額田王を巡る恋の争い王位継承を巡る争いなどがあったと言われています。
それが、天智帝死後に起きた、日本古代史上、最大の内乱の、天下分け目の「壬申の乱」に繋がるのです。その、天智帝と天武帝の確執についてや、壬申の乱については、次回以降に改めてにお話します。
今回、注目したいのは、その天武帝と天智帝との確執により、争いがあって、天智帝の息子の大友皇子が死に追いやられたことです。
そして、それによって、大海人皇子が天武帝として即位したのです。その後、天武帝の血筋が約100年に渡り、王位を継いでいくのです。
そのため、天智帝の血筋の一族は、天武帝に怨念があっただろうという推測です。
つまり、その天智帝の血筋を引く、桓武帝にとっては、天武帝は敵のような存在だったと言えるでしょう。そのため、天武帝の編纂を命じた、「記紀」の記述から、
天武帝と同化し、讃えられていた「ツクヨミ」の存在感を、限りなく消し去りたかったと考えられるというのです。
そもそも、都を、わざわざ、大和・飛鳥の地域(現在の奈良県)から、京都へ移したのは、
少しでも天武帝から切り離したかったからではないかと考えられるでしょうか。
しかも、京都の都が築かれた地域は、四方を山で囲まれた天然の要害です。
それは、当然、敵からの侵入を防ぐ目的があった訳ですが、その敵とは、地方、地域で抵抗しようとする豪族や勢力を意味するだけでなく、
むしろ、天武帝の縁のある人物たちの勢力や、特にこれが大きいと思いますが、
天武帝の怨霊などの形なきモノを桓武帝が恐れたということが大きいのではないでしょうか?
奈良時代末期の当時、奈良(大和・飛鳥)の都の近辺には、天然痘などの疫病が流行ったと伝わっています。
それを避けるために、都を京都に移したとも伝わっています。
しかし、わざわざ、そんな遠い(当時としてはですが)、奈良から京都へと都を移さないと、病気の感染を防げないと考えるのは、飛躍しすぎた考えだと思えるのです。
やはり、裏があって、それこそ、天武帝からの怨念を避けるためだったとも考えられるのです。ただ、ここは、諸説あります。別の説は、機会を改めてお話します。
日の都 平安京へ
そんな事情もあって、都は、奈良地域から京都へと移されます。
平安京は、日の当たる都になり、旧都の奈良の都(平城京など)は月影の都の存在になります。さらに、遷都と同時期に、太陰暦で陰陽道を大事にしている時代にも関わらず、「記紀」の中の、ツクヨミの存在感を作為的に薄くしたのです。
月影=天皇から、太陽=天皇へと変化し、しかも、男性を意味することになっていったのではないでしょうか。
ツクヨミは忘れ去られていくのです。卑弥呼の男弟が忘れ去られていったように。
おわりに
さて、次回は、前回から話題に上がっている、天武帝と天智帝について、お話したいと思います。学校の日本史の授業でも大きく話題に上る、この二人ですが、おさらいの意味でも見ていきましょう。
日本古代史上、最も注目された二人と言えるかもしれません。この二人の人物像や、その確執から始まる、日本古代史上、最大の内乱と言われる壬申の乱についてお話したいと思います。
お楽しみに。
【主要参考】
◆新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝〈1〉 (岩波文庫)