意外!平安京は未完成で終った残念な首都だった


 

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長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

千年の古都、京都。その象徴と言えば西暦794年に造営開始された「鳴くようぐいす平安京(へいあんきょう
)
」です。しかし、現在の京都の観光地は東寺(とうじ
)
を除き、ほとんどが元の平安京の郊外に広がるエリアだった事をご存知でしたか?

 

それより何より、そもそも平安京は未完成なまま造営を中止した、中途半端で残念な都だったのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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湿地帯の為に衰退し消えた右京

藤原京(地図)

 

平安京は、天皇の住まいである北の内裏(だいり)を中心に右京と左京に大別された都でした。

 

ところが、平安京が造営された京都盆地は、北東から南西にゆるやかに傾斜(けいしゃ)していて、左京はともかく、右京全体は紙屋川(かみやがわ)桂川(かつらがわ)の氾濫地帯にあり水はけが悪い湿地が多く、住宅として利用するには難しかったようです。

その為、北西部のみが部分的に宅地化されただけで、平安後期になると平安前期から中期の建物が崩れ落ちて、耕作地(こうさくち)に変化。全体的には田園地帯に変わったのです。

桓武天皇 

 

事実、遷都(せんと
)
の言い出しっぺの桓武天皇(かんむてんのう
)
は、平安京は人民に負担をかけるだけで、これ以上建設する意味もないとして、西暦805年、平安京造営中止の(みことのり)を出しました。以後の平安京は完成した部分だけの修理と増築だけを行い全体としては未完成に終わったのです。

 

洛中・洛外という言葉の意味

洛陽城

 

右京が衰退し消滅した事を端的に象徴するのが、洛中(らくちゅう)洛外(らくがい)という言葉です。

平安京造営当時は、左京を洛陽城(らくようじょう)、右京を長安城(ちょうあんじょう)呼び分けていました。これは唐の時代の二大都市、洛陽と長安になぞらえた呼び名です。

でも、右京は間もなく寂れてしまい、左京しか機能しなくなったので、長安城の呼び名は消滅。やがて平安京そのものが洛楊城、やがて縮めて(らく)と呼ばれるようになります。上洛のらくですね。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

安土桃山時代(あづちももやまじだい
)
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が京都の主要部分を取り囲む御土居(おどい)を構築して以降、その内部を洛中、外部を洛外と呼ぶようになりますが、洛中には右京はほぼ含まれません。

 

大和朝廷

 

貴族と名門武家の街左京

平清盛 鎌倉幕府

 

北東部にある左京北部は、貴人の邸宅が連なり、庶民の住居も軒を接して立ち並びますが、そのせいで火事が発生すると広い範囲が延焼する事になりました。

逆に、左京南部は排水困難な土地でしたが、平安後期になると治水対策が進み、新たな街路や街区が整備されます。長らく手つかずだったので、土地があまり、院政の有力者や平家のような新興勢力が広大な邸宅を構えるようになりました。

 

 

平安京を破壊する住民

疫病が蔓延した村と民人

 

平安京は広大な面積を持つ都なので、とても行政だけでは管理が間に合わず、延喜式(えんぎしき)には住民に対し街路の清掃や街路樹の植栽(しょくさい)の義務がありました。それぞれの(ぼう)(じょう)の責任者は、受け持ちのエリアを定期的に巡回して清掃義務の遂行を監督、違反者は、高級役人は人事査定の低下と減俸。下級役人や庶民は(むち)打ち刑を科せられました。

 

平安京の坊の周囲は大路の両側の築垣(つきがき)で囲まれていて、三位以上の公卿しか、大路に面した門屋を造れませんでした。その他の人々の坊への出入りは、小路に対応する坊門だけで築垣にボコボコ穴を開けるのは許されず、実用性よりも美観が重視されていたのです。

 

 

しかし、罰則はすぐに有名無実になり、庶民は街路の築垣に穴を開けて水路を通していましたし、垣根は簡単に崩れ、メインストリートの朱雀大路に馬や牛は放し飼い状態。夜は垣根の内が盗賊の巣窟になっていたようです。つまり、(とう
)
長安(ちょうあん
)
を模した築地塀は、あっという間に住民に崩され穴ぼこだらけになり、土壁で区切られた美しい区画は消えてしまいました。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-アンゴルモア 元寇合戦記
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