明智光秀の最期の戦いとなった山崎の戦いについて、明智光秀が織田信長を倒したもののわずか13日後に豊臣秀吉に敗れたことがきっかけで三日天下と呼ばれるようになりました。今回は、三日天下について最初に辞書の意味を紹介ます。次に、三日天下の由来となった山崎の戦いの戦いについて経過と13日で明智光秀の政権が終わった要因についてそれぞれ取り上げます。
四字熟語「三日天下」とは?
三日天下とは権力を握っている期間が短いことを意味します。由来となったのは明智光秀が豊臣秀吉の軍に敗れた山崎の戦いが由来となっています。
光秀は本能寺の変で織田信長を倒してから権力を握りましたが、わずか13日後で倒されました。この短い期間しか権力を握れなかったことを人々は三日天下というようになり、現代でもこのような意味で使われています。
三日天下の由来となった山崎の戦いとは?
1582年6月2日の未明に本能寺の変が起こりました。明智光秀は当初中国地方の毛利輝元を攻めるために軍を率いていましたが、急遽京に引き返して本能寺に宿泊していた織田信長を襲いました。この事件により織田信長は自害することになりました。
明智光秀は織田信長を倒したことで、安土城を落とすなど権力基盤を固めようとしました。本能寺の変を知った直後、中国地方の備中高松城の城攻めをしていた豊臣秀吉は毛利軍と講話し、清水宗治の切腹を見届けました。その後、中国地方からわずか2日間で京に引き返しました。この2日間で中国地方から引き返したことを中国大返しといいます。大河ドラマなどではトライアスロンやマラソンのように給水や走りながら食べている姿を見たことがあるかもしれません。
山崎で豊臣秀吉と明智光秀の軍が衝突しました。この戦いを山崎の戦いといいます。山崎の戦いで、豊臣秀吉の軍が勝利し、光秀は敗れて坂本城に逃げる途中で農民に討たれて戦死しました。明智光秀の天下が13日しか続かなかったことから三日天下と呼ばれるようになりました。
なぜ山崎の戦いで明智光秀に味方しなかったのか。
明智光秀は味方になってくれるように書状を送りました。1人目は細川藤孝で、光秀の娘の玉が息子の細川忠興に嫁いでいて姻戚関係があったことから味方になってくれるだろうと予想していました。
2人目は大和一国を支配していた筒井順慶でした。織田信長の家臣の中で筒井順慶は光秀と友人関係で、光秀は味方になってくれるだろうと考えていました。明智光秀は本能寺の変後に味方になってくれるだろうと考えていた人が味方にならなかったことが三日天下になった原因となりました。
戦国時代ライター オフィス樋口の独り言
今回は三日天下になった山崎の戦いについて取り上げました。最初に三日天下の辞書の意味を紹介しました。政権を握っている期間が短いことを意味しますが、その四字熟語の由来は明智光秀が敗れた山崎の戦いであることが分かりました。
山崎の戦いでなぜ明智光秀が不利な戦況になったのか。細川藤孝・忠興親子と筒井順慶らが光秀の味方にならなかった理由について、下剋上で心証を悪くしたことが考えられますが、詳細については分かりませんでした。
豊臣秀吉の情報工作があった可能性も考えられます。今後の研究に注目したいと思います。山崎の戦いは三日天下だけでなく、別の言葉の由来にもなっています。豊臣秀吉か明智光秀のいずれか買った側が天下を握る重要な戦いであることから天王山と呼ばれています。天王山は山崎の戦いの近くにある山のことを指します。
現代では、野球やサッカーなど優勝を争う重要な試合のことを指すときに天王山と使われることがあります。
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