三国志演義に登場する霹靂車は石などを投げつける攻城兵器の1つです。霹靂とは雷の事ですが、史実には全く登場しない名前で実際は発石車のことを言っています。三国志で霹靂車が使用された有名な戦いは、曹操と袁紹が戦った官渡の戦いです。そこで今回は正史『三国志』をもとに、官渡の戦いで曹操が霹靂車を使用する過程を解説します。
この記事の目次
官渡の前哨戦で顔良と文醜を失う袁紹
建安5年(200年)曹操と袁紹は天下分け目の決戦を行いました。有名な「官渡の戦い」です。まず袁紹は白馬に駐屯している曹操軍の劉延を顔良・郭図・淳于瓊に攻撃させました。顔良は袁紹軍の腕の立つ将軍です。しかし彼は曹操軍の客将となっていた関羽により討たれてしまいます。顔良が討たれた後、続いて文醜が出陣しました。彼も顔良と肩を並べるほどの猛者でした。だが、彼も曹操軍により瞬殺!初戦で顔良・文醜という主力を失った袁紹は途方にくれます。仕方ないので直接対決しかありません。袁紹は曹操と官渡で対峙しました。この官渡城、実は城ではなく砦です。曹操がここを決戦場と定めて突貫工事で土を固めて強固な砦を築いたのです。曹操軍には優秀な土木技術者がついていたんですね。
官渡城を少しずつ大軍で包囲する袁紹
官渡城に対し袁紹がとった作戦は、大軍で少しずつ近付いて城を包囲することでした。なぜこんな作戦をとったのでしょうか?それは曹操軍の質にあると筆者は考えています。曹操は兵の数が少ない分、速攻戦には強いです。ただし、持久戦になると非常に弱いところがあります。かつて呂布と濮陽で1年余り戦った時に、イナゴの大量発生による兵糧不足で撤退したことがあります。袁紹は曹操軍のこういった弱点を熟知していたので、ジリジリと少しずつ攻めていく作戦に出たのでしょう。近付いてきた袁紹軍に対して曹操軍は戦うも惨敗。1万の兵士のうち2、3千を失いました。袁紹の読みは見事に的中したのです。
袁紹軍は物見櫓を開発
さらに袁紹は、官渡の城壁の高さを超える物見やぐらを完成させます。これで城内の曹操軍の動向がバッチリ見渡せます。しかもそれだけではありません。袁紹軍は物見櫓から曹操軍に一斉に矢を放ちました。次々と矢が雨のように降ってくるので曹操軍は大混乱します。!袁紹は、同時に地下道を掘って官渡城の内側に侵入経路を確保しようとします。袁紹は、公孫瓚の籠城する易京も土木工事で城壁を全て破壊して攻略していますから、もはや袁紹のゴリ押しプレイかと思いきや…曹操は、すぐに城内から地下道を掘って反撃に出ました。そして、地中の柱を切って袁紹サイドの地下道を崩壊させます。
曹操が霹靂車を作成し流れが変わる
袁紹軍が放ってくる矢に兵士は恐怖しましたが、これには楯を持って対抗しました。しかしそれでも、索敵と攻撃の元である物見やぐらは、どうにかしないといけません。そこで曹操が開発したのが「霹靂車」でした。曹操軍は早速、石をセットすると袁紹軍の物見やぐら目掛けて発射!木製の物見やぐらは次々と破壊されていき全滅しました。
許攸に叛かれ烏巣を焼かれた袁紹は撤退
有利だった袁紹軍は急に不利な状況に陥ります。今度は汝南の黄巾軍の残党である劉辟と手を組み曹操の背後を突く作戦を考えますが、曹操軍から派遣された曹仁に敗れて壊滅します。挙句の果てに許攸が袁紹軍から逃亡して曹操に降伏。烏巣の兵糧庫のことを教えてしまいます。曹操は烏巣を襲撃して兵糧を全て焼いてしまいました。戦線を維持できなくなった袁紹は、官渡から撤退を決意します。ここに曹操と袁紹の天下分け目の戦いである官渡の戦いは終わります。
正史に攻城兵器が出る事は少ない
正史三国志で、攻城兵器が出てくる戦いはあまり多くありません。官渡を除くと、北伐の時に諸葛孔明が陳倉城を攻めた時くらいです。陳倉で孔明は、雲梯や衝車を用い、次に袁紹同様、物見やぐらを使って城中に上から矢を射掛けさせていますが、守将の郝昭は盾で防いで籠城戦に勝利しています。
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