科挙(官吏登用試験)は現在の公務員試験です。開皇3年(583年)に、隋(581年~618年)の文帝が、広く人材を求めるために試験による官吏登用を整備したのが最初です。科挙は次の王朝の唐(618年~907年)でも行われました。
ところが、隋・唐で実施された科挙は合格の優先順位が貴族・金持ちが対象でした。そのため、祖父・親のコネによる合格者が続出したので、当初の目的である広く人材を求めることが崩れました。
しかし、乱世の五代十国時代を経て、世間に幅をきかせていた貴族がいなくなりました。おかげで当初の科挙の理念を実施出来るようになったのです。北宋の初代皇帝趙匡胤は早速、実施に踏み切りました。今回は北宋初期の科挙政策について解説します。
科挙以前の官吏登用法
まず、科挙以前の官吏登用法について解説します。
確認がとれるだけで3つ存在します。
(1)察挙
(2)九品官人法
(3)任子
(1)は世界史の用語集では「郷挙里選」で有名です。漢代で行われた方法です。中央から派遣された地方官が、地方の評判のよい人を推薦する方法です。『三国志』の曹操もこれで推薦されています。親孝行・ボランティア精神等があれば合格です。しかし、地方官が地域の豪族の意見に左右されることがマイナス点でした。
(2)は魏晋南北朝時代から行われた制度です。
中央から中正官という役職の人を派遣して、地方の評判のよい人を1~9の等級で査定します。あとは中央政府が、その人に官職を授けるという方法です。非常に良い方法と思うのですが1回でも等級を査定されたら、その家はずっとその等級にされます。上の等級ならよいのですが、下の等級だったら家が没落するまでその等級です。要するに人の能力とは、全く無関係です。
(3)は祖父・親のコネです。科挙実施後も残りました。
このように科挙以前は家柄・世襲による登用制度が多く、自身の能力とは無関係でした。隋の文帝は、そこで実力試験による科挙を発案しました。ところが、前述のように隋・唐の科挙も貴族・金持ちだけが受かることが基準値となっていました。隋・唐の科挙合格の是非は試験の成績よりも、いかに貴族に事前運動をするかでした。大学入試で言うと裏口入学です。これを改革したのが北宋の建国者の趙匡胤でした。
宰相は読書人にするべき!
建隆元年(960年)に北宋は趙匡胤により建国されました。その後、趙匡胤は各地の国を討伐しました。その中に四川省の後蜀がありました。後蜀から持ち帰った鏡に刻まれている古い文字を誰も読めませんでした。趙匡胤の側近の趙普も読めませんでした。
趙普は元々、実務屋上がりの宰相なので学問には疎かったのです。すると学問に詳しい竇儀という部下が、スラスラと読みました。驚いた趙匡胤は、「宰相は今後は読書人を用いよう」と言いました。また、次のような話も残っています。
学識のある盧多遜という部下に分からないことを尋ねた時に、彼がスラスラと答えました。感心した趙匡胤は、「これからは宰相は儒学者を用いよう」と言いました。2つとも趙匡胤が学問に関心があったことで有名な逸話であり、また科挙政策に影響があったとも言われています。
趙匡胤の科挙政策
趙匡胤は早速、科挙改革に挑みました。ここに問題がありました。祖父や親のコネで入ってくる悪質な連中です。前述の任子という制度です。趙匡胤はそういう悪質な連中に対する対策を立てました。出した対策は、〝コネで入るのは許すが出世は絶対にさせない〟でした。要するに、出世したければ実力で勝ち取れです。実に正しい判断です。
この政策の実施により、コネで入った連中は改めて科挙を受験することになりました。また、唐まではペーパー試験だけでしたが、趙匡胤は不正合格者を見抜くだめに、〝殿試〟という皇帝自らが行う面接試験も創設しました。趙匡胤は、かなり厳しく面接し少しでも怪しかったら落第にしていました。おかげで趙匡胤の時代は、合格者が平均9人でした。趙匡胤は精鋭を採りたかったのです。
雑になる科挙
ところが、趙匡胤の精鋭採用方式は、弟の第2代皇帝趙匡義により崩されました。趙匡義は1度に100人以上も採用する大量採用方式を行いました。趙匡義は、「たくさんの中に少しの天才がいればよい」という言葉を残しています。兄とは正反対でした。
また厳格にしていた面接試験の殿試も受験生と皇帝の対面だけになり、殿試で落ちることはなくなりました。趙匡胤のやり方は完全に形骸化したのです。
宋代史ライター 晃の独り言
以上、北宋初期の科挙について解説しました。実は趙匡義が兄と正反対の大量採用方式を行ったので、後に北宋では財政負担が起きました。政治家の数が多すぎるということです。兄はしっかりと考えていたのに、弟はあまり知恵が回らなかったのでしょうね。
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