三国時代を終わらせた司馬昭の息子・司馬炎。司馬炎は三国時代を終わらせ中国に新しい統一国家・晋を誕生させ、初代皇帝として君臨することになります。晋の初代皇帝司馬炎ですが、息子達は一体何人いたのでしょう。
司馬炎の息子たちは一体何人いたの?
晋の初代皇帝・司馬炎ですが息子たちはいったい何人いたのでしょうか。史実に残っているだけでも25人程存在していました。この司馬炎の息子達ですがほとんどがポンコツと言っていい人物ばかりで、司馬炎がせっかく統一国家を作り上げたにも関わらず彼の死後、兄弟達で争って中国を分裂させる原因を作り出してしまうのです。この原因を作り出したきっかけは司馬炎の跡を継いだ皇帝に原因がありました。
司馬炎の息子の中で一番のポンコツ息子・司馬衷
司馬炎は二代目の皇帝に司馬衷を選びます。彼は司馬炎の息子の次男でとんでもなくポンコツでした。司馬衷がとんでもないポンコツっぷりを示す逸話が残っています。司馬衷は晋の国家が飢饉が原因で民衆たちが飢えてご飯が食べれない時期がありました。
この時司馬衷は「民衆は食べるものがなければ肉粥を食べればいいのにどうして食べないんだろうね」と側近へ語っていたそうです。西洋のある貴婦人が発した「パンがなければケーキを食べればいいんじゃないかしら」発言を思い出すとんでもないポンコツ発言と言えるでしょう。
このポンコツ・司馬衷が皇帝になったため、晋の国は大きく乱れることになり、晋の国は内戦状態になっていくことになり、司馬炎の息子の中でもとてつもなくポンコツな息子と言えるのではないのでしょうか。司馬炎の次男・司馬衷は超がつくほどのポンコツでしたが、ほかの息子達も全てポンコツだったのでしょうか。
晋の三代目皇帝・司馬熾はそれなりに優秀だったけど…
晋の二代目皇帝・司馬衷はとんでもなくポンコツで、国を乱した原因を作り出して亡くなってしまいます。その後司馬衷の跡を継いだのが司馬熾です。彼の評価は司馬衷と正反対で学問を行い、皇帝となった後も学問を続けていたそうです。
更に皇帝となって政治を行う際、家臣の意見を聞いてしっかりと政治を行ったそうです。
荀彧の玄孫として晋の時代に活躍した荀崧は司馬熾を上記のように評価していました。しかしこのように優秀な皇帝・司馬熾が登場しても晋の国家は既に手遅れで、衰弱した国家を立て直すことができず、劉淵率いる異民族の軍勢の攻撃を防ぎきることができませんでした。その結果、司馬熾は捕虜になった後亡くなってしまうのでした。「司馬熾がもし平和な時代の国家を統治することができれば、優れた君主となっただろう」と荀崧が言葉をこぼしたそうです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
今回は司馬炎の二人の息子を紹介しました。司馬炎の息子の中には司馬衷や彼よりもマシですがやはりポンコツばかりの息子が多くいます。司馬炎の息子達は25人程いるのでその中でほとんどがポンコツだけではありませんでした。
例えば上記で紹介した司馬熾は司馬炎の息子達の中でも優秀な人物の一人と言えるでしょう。他にも司馬炎が一番息子達の中で可愛がった司馬柬という人物がいます。
この司馬柬は優秀だったという実績を作る前に亡くなってしまいます。人々は司馬柬が亡くなった時に彼の死を大いに嘆いたと記されていることから人望のある人物で、学問などにも優秀な人材であったのかもしれません。
前漢王朝や後漢王朝も初代皇帝の息子達はポンコツが多くいましたがやはりひとかどの人物は幾人かはいました。その伝統を受け継いでいるとは思えませんがポンコツが目立つ司馬炎の息子達ですけど一概にポンコツばかりだとは断言できないのが歴史の面白いところなのではないのでしょうか。
参考 三国志武将辞典
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