司馬昭(しばしょう)とはどんな人?三国時代終焉の立役者でもあり司馬懿の次男

2016年12月24日


 

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司馬懿

 

司馬懿(しばい)は曹氏四代の君主に仕えて魏の国の重鎮となっていきます。彼は曹芳(そうほう)の時代にクーデターを起こして、魏王朝の運営者であった曹爽(そうそう)を没落させ、司馬家が魏王朝の運営者となります。

 

 

晋の司馬師は玉座に座る

 

 

その後司馬懿はなくなり、彼の長男である司馬師(しばし)が跡を継ぎます。彼は司馬氏に対してクーデターを起こす地方軍閥を討伐して、司馬家の権力を確乎たるものにした後、病によって亡くなってしまいます。

 

眼球が取れる司馬師

 

司馬師の跡を継いだのは司馬懿の次男である司馬昭(しばしょう)です。彼の活躍によって三国志の時代は終焉に向かって動き出すと同時に司馬家が天下を手に入れる最後の仕上げを行うことになります。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬師の跡を継いで司馬家の当主となる

司馬昭

 

司馬昭は兄・司馬師が反乱鎮定中に危篤状態になったと知らせを受けると急いで、兄の元へ向かいます。しかし彼は司馬師の死に目に会うことはできませんでした。

曹髦

 

その後皇帝である曹髦(そうぼう)から兄が就任していた官職全てを引き継ぐようにと命じられると同時に「淮南(わいなん)で起きた反乱は全て鎮圧された。すぐに朕の元へ帰還するべし。また司馬師が率いていた軍勢は配下に任せるべし」との詔勅が下されます。

 

鍾会

 

司馬昭はこの詔勅を受け取るとどうすればいいか側近である鍾会(しょうかい)らに相談。彼等は、「今兵を全て返還してしえば司馬家の威勢は一気に低下することになるでしょう。その為ここは詔勅を無視してそのまま洛陽近辺に駐屯するべきだと思います。」と進言。この進言を採用した司馬昭は洛陽近辺に軍勢を駐屯させ数日を過ごしていると皇帝・曹髦から「現状のままでよい」との詔勅が届きます。こうして兄・司馬師から官職とともに軍権を引き継ぐことになります。

 

 



賈充の進言

賈充の進言

 

 

司馬昭はこうして魏の王朝の実権を握ることに成功し、その後魏の政権の政治運営を行っていきます。ある日側近である賈充(かじゅう)が司馬昭の元へ訪れて、「四方(征東・征西・征南・征北)の将軍へ日頃の感謝を込めて使者を送るのと同時に、今の司馬家主導の状態をどう思うか調査してみてはいかがでしょうか。

 

そこで司馬家の政治に反対意見をもたらすのであれば、今後その者は反乱を起こす可能性が非常に高い事が判明し、反乱を起こす前に事前に色々な手を打つことができると思います。」と進言。司馬昭はこの進言を取り入れて早速、四方の将軍へ慰労の使者を送ると同時に、司馬家が主導となって魏の政権を動かしているのことについての意見も述べさせるように使者に命令を出します。

 

曹操孟徳

 

 

呉の国境を守る諸葛誕に不穏な動きあり

陸遜 兵士

 

その結果、呉との国境を守備する諸葛誕(しょかつたん)以外の者は、不満を漏らすことがありませんでした。賈充は使者の報告を受けると諸葛誕の元へ自ら出向い慰労の言葉を述べた後、「魏の首都洛陽(らくよう)では民衆達が晋公が皇帝になってくれた方が良いとの声が、高まっているがあなたはこの状況をどのように思う」と訪ねます。

 

すると彼は大いに怒り「キミは魏の重臣として活躍した賈逵(かき)殿の息子ではないか。曹操様の時代から恩義を受けているのになぜそのような事を口走る事が出来るのだ。俺はもし魏の王朝になんかあったら一番に立ち上がるであろう」と述べます。この言葉聞いた賈充はすぐに司馬昭の元へ戻って報告。司馬昭は司馬家の政権を快く思っていない諸葛誕を警戒するようになります。

 

 

諸葛誕の反乱

諸葛誕

 

司馬昭は諸葛誕(しょかつたん)が反乱を起こしたとの知らせを聞いても焦ることなく冷静に対処。まず彼は皇帝・曹髦と皇太后に「諸葛誕の反乱を鎮圧するには陛下の力が必要です。

 

何卒ともに先陣へ赴いてくださいませんか」と上奏。司馬昭の意見を聞いた二人は彼の意見を聞いて諸葛誕反乱鎮圧軍に加わります。その後司馬昭は大軍を率いて諸葛誕が篭る寿春城を包囲。約1年かけて寿春城を包囲した結果、寿春城の兵糧が無くなった事と相次ぐ将兵の降伏がきっかけとなり、諸葛誕は寿春城を捨てて逃亡を図ります。しかし途中で司馬昭の軍勢に見つかってしまい殺害されたことで、諸葛誕の反乱は鎮圧されることになります。

 

 

司馬家の横暴に我慢の限界

司馬師

 

皇帝として本来であれば魏王朝の運営における決済など、自分の思い通りに世の中を動かすことが出来るはずの曹髦(そうぼう)。しかし現状は司馬家が魏王朝の実権を握り好き勝手政権を運営しいるのが実情で、皇帝はほとんど飾り物に過ぎない状態が続いております。彼は皇帝として就任した当初は我慢しておりましたが、皇帝として就任してから幾年が経っても司馬家の専横が変わることない状況についに激怒。皇帝の側近が止めるのを聞かずに曹髦はついに挙兵します。

 

 

曹髦は殺害され亡くなってしまう

皇帝の位を降ろされる曹髦

 

こうして挙兵した曹髦ですが、皇帝の軍勢を迎撃に出てきた賈充(かじゅう)の軍勢によって殺害されてたことによって、皇帝の反乱は鎮圧されることになります。この時賈充は皇帝の軍勢にビビっていた部隊長・成斉に「ビビってんじゃねーぞ。お前らを養ってきたのはこういう事態に対処させるためだ。皇帝を殺害しても罪に問うことはない。気にせず倒して来い。」と叱咤。この言葉を聞いた成斉と弟は勢いよく曹髦へ突進して殺害します。

 

親友・陳泰に相談するが・・・

親友・陳泰に相談

 

司馬昭が皇帝曹髦を殺害したことによって反乱が鎮圧されたことに大いにショックを受けます。彼は民衆や部下、未だに魏王朝を慕っている者達から避難されることが目に見えているので、大いに困惑し、彼の親友である陳泰(ちんたい)に相談します。陳泰は司馬昭から相談を受けると「賈充を殺害して天下に謝るべきです。」と述べます。

 

しかし司馬昭は「賈充は私の側近であり、今後も活躍することになる貴重な人材だから、それはできない」と反対し、「違う方法はないか」と再度意見を求めます。すると陳泰は怒り気味で「私にはこれ以上最上の策を持っていない」と話を切り上げて司馬昭の元から去っていきます。司馬昭は途方にくれますが自らの避難を回避するため皇帝を殺害した実行犯である成斉兄弟を殺害した後、魏王朝の公式発表として「皇帝を殺害したのは皇太后殺害を目論んでいたため」と発表。

 

だが天下の知識階級の人々は司馬昭が成斉兄弟に命令して皇帝を殺害したに違いないと考えておりました。その後皇帝には曹奐(そうかん)を擁立して魏王朝の混乱を最小限に抑えました。

 

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蜀漢討伐戦

蔣琬と姜維と王平

 

こうして魏の国内における憂いを断ち切ることに成功した司馬昭は蜀へ目を向けます。蜀は姜維(きょうい)が大将軍となってからは連年北伐を敢行。しかし魏の郭淮(かくわい)や陳泰らの活躍によって撃退され、思うように戦果をあげることができませんでした。この状況を見て司馬昭は蜀の国力は力尽きていると判断。

 

側近である鍾会(しょうかい)に相談すると「その通りであると思います。是非今こそ蜀漢討伐の軍勢を起こすべきであると思います。」と司馬昭の提案に賛成します。司馬昭は鍾会が賛成してくれたことによって蜀漢討伐への決意を固め、鍾会を蜀漢討伐軍の総大将に任命して、副官に鄧艾など多くの将と兵士らをつけて出陣させます。

 

 

側近が懸念を口にする

 

司馬昭の側近は鍾会が出陣したと聞くと急いで司馬昭の所に来て「鍾会は人質がおりません。蜀漢討伐が成功した後に反乱を起こす可能性がありますぞ」と注意を促してきます。この言葉を聞いた司馬昭は「もし鍾会が蜀を討伐して挙兵しようとしても難しいであろう。その理由はあの嶮岨な国を苦労して討伐を終えた兵や将らは、帰国したい気持ちでいっぱいであろう。

 

また降伏したばかりの蜀軍は戦意が低下しており、使い物にならないはずだ。だからもし反乱を起こしても彼が成功する可能性はほとんどないと考えている」と述べます司馬昭と側近が考えていた鍾会の謀反の可能性は実現してしまうことになります。

 

 

鍾会の反乱

劉禅

 

司馬昭(しばしょう)の予想は当たってしまいます。鍾会(しょうかい)の副将である鄧艾(とうがい)の活躍によって蜀の国主である劉禅(りゅうぜん)が降伏。こうして蜀は滅亡することになります。その後鍾会は副将である鄧艾と息子を謀反の可能性があるとして逮捕した後殺害。そして蜀の降伏兵と自分が率いていた魏軍を手中に収めて、司馬昭に反乱を起こします。

 

鍾会が反乱を起こした事を知った司馬昭は長安に10万の兵を率いて駐屯し、蜀の反乱の状況を見守ります。その結果鍾会と共に反乱を企てた姜維は、鍾会の部下であった将軍・胡烈(これつ)の活躍によって反乱は鎮圧。全て司馬昭の読み通りに推移して反乱は終結することになります。

 

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鍾会の乱

 

 

晋王の誕生

司馬昭

 

司馬昭は鍾会が反乱を起こす半年前に晋公から晋王の位に昇進を果たします。皇帝である曹奐は「司馬家は長年魏の王朝に忠誠を誓い、彼らが上げてきた功績は比類ないものである。よって司馬昭を晋公の位から晋王の位に昇進させるものである」との詔勅が下ります。司馬昭はこの詔勅をもらいついに晋王へ登ることになります。こうして魏王朝の中で最大の官職を受け取った司馬昭は、つぎに彼が就任することになるのは皇帝のくらいしかなく、いつ禅譲が行われてもおかしくない状況になります。

 

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司馬家の基盤を確立させた司馬昭死す

司馬炎に気に入られる孫秀

 

司馬昭は晋王の位に就任してから一年後病にかかって亡くなってしまいます。彼が亡くなるとその日に息子である司馬炎(しばえん)が彼の官職全てを引き継ぎ、翌年魏王朝は司馬炎に皇帝の位を渡すことになり、晋王朝が開かれることになります。司馬家三代によって権力を確立したかれらの行いは、司馬炎によって報われることになります。

 

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呉における司馬昭の評価

呉における司馬昭の評価

 

蜀討伐が行われた時、呉の群臣達は蜀討伐の行方はどうなるか協議を行います。この席である群臣は「司馬家に中原の人々が臣従していないのに、蜀へ攻撃を開始した。これは大いなる過ちで、必ず失敗するであろう」と予想を立てます。後に呉の最後の丞相となる張悌(ちょうてい)はこの意見に反対し「司馬懿や司馬師、司馬昭の親子は魏の政権を握ると功績を立てて、政治における煩わしさを取り除くとともに民への過酷な取りたてをやめている。その結果司馬家に民衆が慕っているのは間違えないことだ。その証拠に諸葛誕(しょかつたん)・毌丘倹(かんきゅうけん)・王凌(おうりょう)の三人が反乱を起こし皇帝曹髦(そうぼう)を殺害しても魏の国は微塵も動揺することがなかった。このような事ができたのは威勢があり、能力ある者を積極的に取り入れて敵を討伐してきていなければできないものだ。これら司馬家の功績を鑑みれば、疲弊している蜀を討伐して勝利を得るのは容易いであろう。もし万に一つ負けたとしても大きなダメージを負うことはあるまい」と予想を立てます。他の群臣は彼の言葉を聞き流しておりましたが、結果は張悌の予想通りの結末を迎えることになります。呉の国でも司馬昭は高評価をくだされて(司馬家三代の評価が高い)おりました。

 

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三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

司馬懿が魏王朝の中で大きな権力を握り、司馬師と司馬昭の兄弟が魏王朝で握った大きな権力の基盤を確立。そして司馬昭の息子司馬炎が皇帝の位に就任したことによって、司馬家三代の長年の夢が実現することになります。司馬昭は自分の後継者を司馬炎にしましたが、司馬師の養子となっていた司馬攸(しばゆう)に晋王の位を譲ろうとしていたそうです。もし彼が晋王の位を譲り受けていたらどうなっていたのでしょうか。晋王朝は長く存命することができたのでしょうか。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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