曹操軍の参謀、荀彧(じゅんいく)ってどんな人?官渡の戦いでの大勝利も一通の手紙のおかげ?

2015年3月22日


 

荀彧

 

荀彧(じゅんいく)は、字を文若(ぶんじゃく)と言い、

161年から212年まで生きた人物です。

 

スネに傷を持った、曲者が多い、曹操(そうそう)配下の軍師の中では、

履歴がキレイな人物であり、外見も行動も立派な正統派です。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荀彧(じゅんいく)は時代を読むのに長けていた

荀彧 はじめての三国志

 

荀彧(じゅんいく)は先見の明がある人物でした。

西暦189年、孝廉(こうれん)に推挙されて、荀彧は宮中の仕事に就きますが

菫卓(とうたく)の横暴を見て、宮中にいるのは危険と判断。

 

田舎に転任を願い出て許されると、任地にはいかず、故郷に帰り隠棲します。

 

しかし、故郷である潁川(えいせん)郡にも戦乱の気配を感じると、

荀彧は潁川の古老を集めてより安全な冀州に避難する事を勧めますが、

古老は彼を信用せず、故郷を動こうとはしませんでした。

 

やむなく、荀彧は自分の一族のみを連れて、調度、軽騎兵を率いて

避難を呼び掛けていた韓馥(かんぷく)と一緒に冀州に逃れます。

 

それから、僅か数カ月後、潁川郡は李傕(りかく)・郭汜(かくし)の軍勢に

蹂躙され、壊滅し、多くの死者が出ました。

 

本来ならば、このまま韓馥(かんぷく)の配下になる予定だった荀彧ですが、、

韓馥が領有する予定だった冀州は袁紹(えんしょう)に握られていました。

 

すでに荀彧の兄達は、袁紹に仕えていたので袁紹は荀彧(じゅんいく)を

上客の扱いで優遇しスカウトします。

荀彧 袁紹

 

ですが、荀彧は、袁紹(えんしょう)の器では天下を統一できないと見抜き、

それに仕える事はありませんでした。

 



荀彧の最大の望みとは?

荀彧

 

荀彧の最大の望みは、漢王朝を再興して再び、天下太平の世にする事、

そして自身が武将タイプではない以上は、それを可能にする

英傑に出会い、そして参謀として天下獲りに協力する事です。

 

荀彧は、この己の野望を達成する為に生き、そして皮肉にも、

この野望の為に死を迎える事になります。

 

曹操と荀彧が遂に出会う

現実主義曹操

 

曹操(そうそう)は、その頃、奮武将軍として東郡という所にいました。

それを聞いた荀彧は、曹操に仕える為に袁紹の下を去ります。

 

曹操は、荀彧の聡明さを一目で見抜き、これを抱える事を喜びます。

西暦191年、荀彧は29歳の若さでした。

荀彧 曹操

荀彧も、曹操の非凡な才能とカリスマ性に惹きつけられていて、

この人物なら漢王室を再興できると確信します。

 

 

曹操は荀彧を評価していた

曹操 ヨイショ

 

曹操は荀彧を「我が子房」と呼んで重宝しました。

子房とは、漢を建国した劉邦の軍師、張良子房(ちょうりょう・しぼう)の

事ですから、曹操は荀彧を自分が天下を取るに必要な人材であるという

最大級の賛辞を送ったのです。

 

 

曹操は、その内政から外交に至る全ての面において荀彧を頼りにします。

194年に、曹操の配下の陳宮(ちんきゅう)と張邈(ちょうばく)が

離反して呂布(りょふ)を迎え入れた時も荀彧(じゅんいく)は、

これに即座に対応し、許昌を守りきり、曹操が本拠地を失わないように

最大限の努力をしましたし、

 

献帝(けんてい)が、李傕(りかく)・郭汜(かくし)の手を逃れて、

洛陽に戻った時にも、荀彧が逸早く、献帝の保護をアドバイスしたので、

曹操は、献帝を保護して、大将軍の地位につき天下に号令する

立場に上るなど、荀彧の力は必要不可欠でした。

 

官渡の戦いでの大勝利も一通の手紙のおかげ?

曹操 手紙

西暦200年の天下分け目の官渡の戦いでも、

兵糧不足に苦しめられた曹操が、弱気になって退却したい旨を

荀彧に手紙で送った所、、

 

荀彧 曹操

 

荀彧はこれを叱責して励まし、

曹操は、前線を持ちこたえて、奇跡の大勝利に繋げていきます。

 

ところが、赤壁(せきへき)の戦いの以降、菫昭(とうしょう)が、

曹操に魏公の位を授けようと朝廷に根回しを開始すると

荀彧はこれに断固として反対します。

 

荀彧(じゅんいく)はあくまで漢王朝の復興が目的であり、

曹操(そうそう)が魏公になり、漢王朝を凌ぐ立場になる事を嫌ったのです。

 

ですが、曹操も魏公の位を受ける事に積極的になっていき、

荀彧と曹操の関係には次第に亀裂が出来ていきます。

 

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二人の関係に亀裂が入り・・・・

荀彧

 

西暦212年、荀彧は、曹操が孫権討伐の軍を起こしている最中に

病死しました、亨年は50歳、その死には謎が多く、自殺という話もあります。

 

荀彧が病に伏せっている時に曹操から贈り物が届きますが、

それは中身が空っぽであった時がありました。

 

それを見た荀彧は、これを曹操からの「用済み」というサインと受け取り

殺される前に自害したという話もあります。

曹操 死

 

荀彧の反対で、魏公の位を受ける事を延期していた曹操も、死の翌年には

魏公に、そして数年を掛けて魏王にまで昇ります、、

しかし、それも束の間、西暦220年には、病を得て亡くなります。

亨年は66歳でした。

曹丕

 

曹操の後を継いだ曹丕(そうひ)は、魏王の位を踏襲して、2年後には、

献帝に譲位(じょうい)を迫って、後漢王朝を滅ぼし、

西暦220年三国志の一国である魏を建国します。

 

荀彧は、後漢王朝が滅ぶのを見なくて済んだという部分では

幸福だったのかも知れません。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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