三国志の物語に登場する人物の中でも屈指の人気を誇っている劉備。劉備は三国志の魏・呉・蜀の三つの国の中の蜀を建国したことで有名な人物なのは、三国志を知っているみなさんもしくは三国志を詳しくない人でも知っていると思います。
劉備が蜀の国を作ることができたのは色々な出来事があったのですが、この出来事の一つに漢中の主・張魯が関係しているのをみなさんご存知でしょうか。そしてこの漢中の主・張魯が三国志に登場していなければ、劉備が蜀を建国することができずにいたかもしれないのです。
劉備の蜀建国は張魯のおかげ!?
劉備は張魯のおかげで蜀を建国することができた可能性があるのですが、どうして張魯のおかげで劉備は蜀を建国することができたのでしょうか。劉備は張魯のおかげで蜀を建国することができたと上記で説明しましたが、それは一体どうしてなのか。二人にはなにか共通点があるのでしょうか。正史三国志等を調べてみましたが二人に接点はほとんどありません。それどころか劉備と張魯のふたりが顔を合わせたことも多分ないと思われます。劉備はどうして張魯のおかげで蜀を建国することができたのでしょうか。
劉璋と張魯の関係に秘密アリ!?
ここで劉備と張魯の関係性から離れ、そもそも劉備が蜀を手に入れることになった契機について見てみたいと思います。劉備はどうして蜀を手に入れることになったのか。それは劉璋から協力要請を受けることになったからです。さてここでもう一つ疑問が出てくると思います。その疑問とは劉璋が劉備へ何のために協力要請を送ったのか。この疑問の答えに張魯が深く関係してくることになります。
張魯と劉璋は敵対関係にあった!!
劉璋と張魯は互いに憎しみあうほどの深い敵対関係にありました。劉璋は張魯を討伐するべく何度も何度も張魯へ攻撃を仕掛けますが、張魯を討伐することができませんでした。劉璋は自分達だけでは張魯を討伐できないと考え、外部から援軍を得て張魯を討伐しようと計画を行います。
曹操と仲良くなろうとするが・・・・
劉璋は始め曹操と仲良くして張魯を討伐してもらおうと考え、使者を何度も派遣します。最初は曹操と仲良くすることができ、官職等を得ることができました。劉璋は曹操へ幾度目かの使者として張松を曹操の元へ派遣。劉璋は張松が曹操の元から帰ってくると彼から「曹操は我らを軽く見ており、冷たくあしらわれてしまいました。今後は曹操と付き合うのはやめるべきでしょう。」と報告を受けます。劉璋は張松の今までと違って冷遇されたとの報告を受けて曹操と仲良くするのをやめてしまいます。
劉備へ張魯討伐を要請
劉璋は曹操と仲良くするのをやめますが、次に誰を頼ればいいのか迷ってしまいます。この時張松は「劉備を頼ってみるのはいかがでしょうか。殿と劉備は同族ですし必ず力になってくれましょう」とアドバイス。劉璋は張松のアドバイスを採用し、劉備へ使者を送り仲良くする方針に決めます。この時劉璋の使者となって派遣されたのが法正です。劉璋は劉備へ法正を使者として派遣し仲良くなることに成功。そして劉璋は劉備へ張魯を討伐してくれるようにお願いするべく再び法正を派遣します。この結果劉備は劉璋のお願いを受け入れ、張魯を討伐するべく蜀の国へ向かう事になるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備は張魯がいなければ蜀の国へ入ることもできず、蜀の国を作ることはもとより、三国を形成するような大勢力を作り上げることもできなかったでしょう。このように考えれば張魯のおかげで劉備が蜀の国を作ることができ、三国志の三国の内の一つを作り上げることができたと行っても過言ではないと思うのですが、皆様はどのように思いますか。
参考 正史三国志蜀書等
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