法正とはどんな人?劉備に漢中をプレゼントした謀主【年表付】

2020年6月7日


 

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法正

 

法正(ほうせい)は字を孝直(こうちょく)と言い元々は雍州(ようしゅう)出身の人物です。

棗祇(そうし)食料・兵糧担当

 

若い頃に故郷で飢饉(ききん)に直面したので、食糧を求めて同郷の孟達(もうたつ)と共に益州に流れて来たという異色の経歴を持っていました。ところが法正は劉璋政権下の益州で全く出世できず、逆に(くす)ぶっていた法正の才能を高く買ったのは、張魯(ちょうろ)討伐の名目で劉璋(りゅうしょう)に招かれた劉備(りゅうび)でした。

 

法正

 

そして法正は劉備に恩を返すように曹操の内心を見抜いた必殺の策を与え、夏侯淵を討ち滅ぼし漢中奪取に成功するのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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出世できない法正に転機をもたらした劉備

法正

 

若い頃に孟達と共に益州に入った法正は不遇でした。仕官するまで、かなり長期待たされてから、ようやく新都令(しんとれい)となり、その後軍議校尉(ぐんぎこうい)になりましたが、使ってもらえず、おまけに同じ雍州から来た仲間に品行の悪さを言い触らされて、出世の望みを絶たれ、益州人でウマがあった張松(ちょうしょう)と劉璋の悪口を言って()さを晴らしていました。

法正と張松

 

しかし、たまたま張松が曹操に冷たく扱われた途中、荊州に立ち寄り劉備に厚く遇された事から、張松は劉備を張魯の盾として使うよう劉璋に進言、法正は劉備を益州に呼んでくる係を劉璋に命じられます。

法正と劉備

 

法正は、なんで俺がと言いながら、嫌々荊州まで行きますが、出会った劉備の力量に()れて配下になり張魯討伐を理由に劉備を益州に引っ張りこみ、なんやかやで劉璋を倒し法正は謀主(ぼうしゅ)として、劉備の軍略を一手に引き受けます。その頃、劉備は軍師の龐統(ほうとう)を失っていて法正が入ったのは天の助けでした。

 



曹操が巴蜀に攻め込まずに帰った理由を見抜いた法正

悪役の曹操、正義の味方の劉備

 

ところが、劉備がようやく益州を定めてから2年後に曹操は漢中の張魯討伐に向かい、たった一回で張魯を降して漢中を支配します。劉備は、もしやそのまま巴蜀まで南下するのかと怯えてガクブルでしたが、なおも巴蜀まで攻めるべしという司馬懿(しばい)の意見を抑え、曹操は、「欲張るのはよくない節度を知るべし」と鄴に帰ってしまいました。

 

劉備以下、やれやれ助かったと思っている所で法正は曹操の異変に気が付いていて、

法正

 

「曹操が、益州を取らずに夏侯淵(かこうえん)張郃(ちょうこう)を漢中に留めておいて、自分は北に還ったのは、その知力が及ばなかったり実力が不足しているのではなく、きっと国内で後継者争いか何かを抱えているせいです。今、夏侯淵や張郃の才略を見てみると、曹操の代わりなどは到底勤まりません。兵を挙げて出撃すれば必ず漢中を手中に出来ましょう」と劉備に献策しました。

劉備にアドバイスをする法正

 

当時、曹操の急な退却の理由を、このように見抜いた人物は、蜀には法正以外いませんでした。そして、後継者問題が一段落するまで曹操は戻ってこないと見越した法正は今のうちに兵を挙げて、夏侯淵と張郃を討ち、漢中を支配するように進言したのです。

 

益州は漢中を陥落させてこそ持久できる

龐統

 

劉備は龐統の助けで巴蜀(はしょく)は取りましたが、ここを本拠地として曹操に対抗するには、益州の玄関口である漢中を落とす必要がありました。巴蜀と漢中が一体になってこそ蜀は高い防御力を発揮できるのです。

 

法正は漢中奪回後のプランを以下のように言います。

 

「漢中を落としたなら、農業を盛んにして兵糧を積み上げ敵国に隙が出来るのをひたすらに狙います。大きなチャンスがあれば曹操の支配を(くつがえ)して漢室を回復させ、中くらいの成功でも、雍州と涼州に領土を広げていき、どうにもならなくても、要害を堅く守り、国を長く保つ事が出来ます。これは天が与えたチャンスで、失ってはいけません」

自分は天才肌だと勘違いする鍾会

 

この考え方は部分、部分で、諸葛亮も姜維も費禕も、ずーっと後の鍾会も共有しています。鍾会のクーデターは、法正のこの考えそのままだった気がしますけど・・

 

定軍山で夏侯淵を斬り捨てる

二刀流の劉備

 

西暦218年、劉備は法正の進言に従い出陣して漢中の拠点の陽平関を目指し、別動隊として呉蘭(ごらん)雷銅(らいどう)張飛(ちょうひ)馬超(ばちょう)を派遣して武都(ぶと)を攻略させます。武都では、曹休を事実上の大将に曹洪、曹真が迎撃、張飛の囮攻撃は失敗し、雷銅が戦死、曹洪の軍勢に大敗した張飛と馬超は逃げ出します。

蜀では結果が出せない馬超

 

しかし別働隊の活躍で劉備の本隊5万は陽平関を襲撃して占拠し、陳式に軍営を10余り造らせ陽平関に繋がる馬鳴閣の街道を遮断しました。

ゾンビのように何度も蘇る張コウ(張郃)

 

翌年、劉備軍本隊5万は、定軍山に進撃し張郃の1万の軍勢に対して、兵を10部隊にわけて夜襲を掛けて休ませない方法を取ります。張郃はこの攻撃に耐え抜きますが、劉備が走馬谷の陣を焼き払って、東の陣を守る張郃を攻撃すると張郃は劣勢になりました。

戦場で尊敬される黄忠

 

夏侯淵は、張郃のピンチに自軍の半分を派遣して救援します。法正はこの隙を逃さず、黄忠に夏侯淵本陣から南へ15里離れた場所にある逆茂木(さかもぎ)を焼き払わせます。そこで夏侯淵が400騎を引き連れて自ら修理に来ると、黄忠は山の頂上から勢いをつけて数千の騎兵で駆け下り、麓の夏侯淵の首を斬り飛ばしました。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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