曹操軍の中で一番早い軍勢を率いていたと言われる魏の重鎮・夏侯淵。夏侯淵は三国志演義において弓の腕前は妙技とも言える射術の腕前を披露しています。
また孫策と激闘を繰り広げ、孫呉の将軍の中でもトップクラスの武勇を誇った青州の名士・太史慈。太史慈の弓の腕前も夏侯淵に劣らないほどの力を示しております。弓の腕前は太史慈と夏侯淵どちらの方が上なのでしょうか。
三国志演義における夏侯淵の射術の腕前
夏侯淵は正史三国志の記載には射術の腕前についての記載がほとんどありません。しかし三国志演義における夏侯淵はとてつもない弓の腕前を披露しています。夏侯淵はどの程度の腕前を持っているのでしょうか。
銅雀台完成の時の余興で・・・・
曹操は官渡の戦いで袁紹を打ち破り、河北の統一に成功すると記念に銅雀台なる建物を建築。この建物は壁の高さが33㍍もあるとてつもなく巨大な建物でした。曹操は銅雀台が完成すると各地の諸将を招いて宴会を行います。
夏侯淵は宴が終わりに近づくころ、自らの弓技をみんなの前で披露します。夏侯淵は的に刺さった4本の弓矢に向かって更に弓矢を放ち、的に刺さった4本の弓矢の真ん中に突き立てる妙技を見せます。この夏侯淵の妙技を見た曹操や他の諸将は夏侯淵の弓の腕前を大いに褒めたたえたそうです。
また蒼天航路に登場する夏侯淵は雷緒と呼ばれる賊徒をかなり遠くから打ち抜くほどの弓の腕前を見せております。このように三国志演義や蒼天航路の夏侯淵は、常人では持ちえない弓の妙技を持っておりました。では太史慈はどの程度の弓矢の技を持っていたのでしょうか。
砦の上に居る人の手のひらに弓を突き刺す
太史慈
太史慈は正史三国志よれば、弓の腕前は的を外すことなく百発百中の命中率を持ったとんでもない腕前を持っていたそうです。この太史慈の弓矢の腕前を表すエピソードが残っています。太史慈は孫策へ仕えた時、江東で暴れまわっていた賊徒を討伐するために孫策に従って出陣することがありました。
賊徒は孫策軍がやってくると砦にこもって孫策軍に抵抗します。この時一人の賊徒が孫策や太史慈の悪口を砦の上から叫びはじめます。太史慈は賊徒の悪口を聞いてちょっとイラっとし、悪口を言った賊徒に対して弓矢を構え、放ちます。すると孫策や太史慈の悪口を言っていた賊徒の手のひらに太史慈が放った弓矢が突き刺さり、壁に突き立ったそうです。
砦の規模が正史三国志に描かれていないため、どの程度の距離があったのかわかりませんが、かなり遠くから太史慈が賊徒の手のひらへ向かって弓矢を放ったと思われます。最低でも砦の上にいた賊徒から太史慈までの距離は数十㍍くらいの離れていたと考えることが出来、太史慈の弓の技もかなりの腕前であったことが分かると思います。
射術の上で前はどちらが上なのか
太史慈と夏侯淵の弓矢の腕前を紹介しましたが、どちらが射術に優れているのでしょうか。レンの独断と偏見ですが、太史慈の方が優れているのではないのでしょうか。太史慈は正史三国志に記載があり、たぶん史実で上記で示したエピソードくらいの弓の腕前を持っていたと思われます。でも三国志演義も7割くらいが史実であるため、もしかしたら夏侯淵も弓の腕前はかなりの者だったのかもしれませんね。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志と言えば五虎将軍の一人で、弓矢といえば黄忠の名前が有名だと思います。しかし正史三国志には黄忠が弓矢をもって何かをしたようなエピソードが無いので、それなりに弓を放つことができたかもしれませんが、太史慈ほどの腕前はなかったのではないのでしょうか。皆さんはどのように思いますか。
■参考 新紀元社 三国志武将辞典など
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