NHK大河ドラマ「光る君へ」で人気急上昇の平安時代中期。庶民の生活は厳しそうですが、上流貴族の娘に生まれれば、年齢の近い女性同士で優雅に歌を詠んだり、セレブな生活が出来そうな描かれ方をしています。しかし上流貴族の娘がそんな安楽な暮らしが出来るのも結婚して嫁ぐまでのわずかな期間でした。嫁いだ後に娘たちを待っていたのは、一日でも早く男子を産めというマタハラ地獄だったのです。
妻には女子を入内した娘には男子を
平安時代の中期以降、上流貴族の最大の願いは、自分の娘を天皇の后とし男子を産んでもらい、その男子を天皇の位に就けて、自分は外祖父となり摂政に就任する事でした。天皇の外祖父となる以外、権力を振るう道はなかったのです。そのため、貴族たちは最初に自分の妻が娘を産む事を求めました。娘を多く儲けて、歴代の天皇の后にする事が権力を握る第一歩だったからです。しかし妊娠は現在でさえ、人の力でどうこうできるものではありません。ましてや妊娠しただけではなく、最初に女子を確実に産むというのは、当時の女性にとって高く、過酷なハードルだったのです。
道長の権力奪取をアシストした正室、藤原倫子
平安中期に摂関政治の全盛期を築いた藤原道長ですが、彼の権力奪取には正室の倫子が大きく貢献しています。倫子は最初に女子の彰子を産み、次に嫡男である頼通を産みました。まさに一姫二太郎で上流貴族としては理想的なスタートです。さらに倫子は次女となる妍子、次男となる教通、三女となる威子、四女の嬉子と5人の子供を産んでいます。この中で、長女の彰子は後一条天皇と後朱雀天皇の生母となり、四女の嬉子は後冷泉天皇の生母となりました。道長は倫子の力が無ければ藤原氏同士の熾烈な権力闘争に勝ち抜く事は出来なかったでしょう。
不遇な娘藤原妍子
さて、娘を首尾よく天皇の后にしたら、後は男子が誕生するのを切実に待つ事になります。道長の娘で一条天皇の中宮となり、後一条天皇と後朱雀天皇の生母となった彰子ですが、13歳で入内してから9年間懐妊しませんでした。すでに一条天皇には、道長の兄である道隆の娘、定子との間に敦康親王が誕生していて、親王の伯父である藤原伊周が次第に勢力を増している状態でした。そんな状態で彰子は懐妊し、30時間にも及ぶ難産の末に、敦成親王(後の後一条天皇)を産んだのです。道長の喜びは非常なものでしたが、それ以上に苦しみ悩んだのが彰子だった事でしょう。一方で道長の不興を買った娘もいます。それが次女の妍子で、一条天皇の皇太子である居貞親王へ入内しますが女子しか生まれず、道長の対応は非常に冷たかったそうです。
毎年妊娠した藤原公任の娘
天皇に娘を嫁がせ、次には男子をというのは天皇の側近である、すべての上流貴族の願いでした。彼等にとって子作りは愛情や快楽である以上に出世の為の義務だったのです。平安のイケメン貴族として知られる藤原公任の娘は、13歳で藤原道長の子教通と結婚しますが、15歳で長女、生子を産んだのを皮きりに、25歳で四男の静覚を出産するまで、10年間に8度の出産を経験しています。これではとても体力の回復など出来ず、公任の娘は四男の静覚を産んでから間もなく病死しています。この多産には、周囲の圧力があったのは明らかで、平安時代の上流貴族の娘は、子どもが生まれなくても地獄、産まれすぎると健康を損ねて早死にする厳しい環境にいたのです。
まとめ
現在からみると、子どもを産め圧力が激しかった平安時代ですが、日本社会が最初からそうだったわけではありません。奈良時代には女性天皇が相次いで登場しましたし、財産については、男女関係なく相続された時代が続いていて、どうしても男子を産めとか、女子を産めという圧力も無かったのです。しかし、10世紀に入ると、それまで個人と天皇の関係で登用されていた朝廷のポストが次第に固定化、役職は個人ではなく、その家柄にある者が継ぐ事になります。こうして他家に出ていく女子ではなく、男子を中心として一門が形成され、子々孫々に家督を繋ぐために、男子が必要になる社会構造が構築されたのです。
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