以前の記事で、邪馬台国の卑弥呼政権の時代は、倭国は分裂し、倭国大乱は続いていたかもしれないとお話しましたね。今回は、その根拠について、お話していきます。どうぞお付き合いください。邪馬台国の前身の国が、出雲王国で、その領土を丸々受け継いだという話なら、西日本と、東海、北陸から信州までの東日本が、邪馬台国の領土、否、より正確に言えば、邪馬台国広域連合の領土として獲得していたはずです。
しかし、
邪馬台国 諸国連合 (西軍)
VS
狗奴国 (東軍)と、他諸勢力の同盟
という構図だったのなら、倭国大乱 は継続したのか?!と当然考えられる訳です。
この記事の目次
なぜ、卑弥呼の邪馬台国が中心となって、倭国全域を治めていたか
それでは、なぜ、卑弥呼の邪馬台国が中心となって、倭国全域を治めていたかのように伝わっているのか?という疑問が出てきますね。
それは、その記述が初めて登場したとされる、『魏志倭人伝』の成立背景を見るべきでしょう。つまり、それを書いたとされる陳寿の立場を考えると見えてくるのです。ここは、以前も少し邪馬台国の大きさについてお話したことと重なるところもありますが、再考してのお話なので、少しお付き合いください。
「西晋王朝」の 家臣の立場で『魏志倭人伝』を書いた陳寿
陳寿は、三国時代を終わらせた「西晋王朝」の 家臣の立場で、『魏志倭人伝』を書いたのです。西晋は「魏王朝」の後継として成立した国家でした。邪馬台国は、魏に臣従の意を示していました。西晋の臣下の陳寿は、西晋の前身の存在の魏を 立てなければならかったでしょう。反乱を起こさせないために。それは、属国であった倭国の邪馬台国も然りということです。倭国の中心国として、邪馬台国を立てる必要があったということです。つまり、倭国の正統な国王は邪馬台国の卑弥呼女王だと、邪馬台国を格上に見せる必要がありました。倭国が分裂しているように見せたくなかったのでしょう。
卑弥呼は、朝鮮半島の「三韓」の王族の出身かもしれなかったことは前に話しました。その三韓も魏に臣従の意を示していました。
ですから、魏に臣従していた、三韓や邪馬台国は意思統率の取れ、まとまった国家であるように見せたかったということでしょうか。そうすれば、魏の権威が高まるからです。引いては、その後継者たる存在の西晋の権威も高まるということです。これは、陳寿の策略で、西晋が正統な中国大陸の支配者として宣伝するという意図があったということでしょう。プロパガンダとしての『魏志倭人伝』の価値が見えてきます。しかし、倭国は、実際は分裂していたか、内乱状態が再発したというのが、実像ではないかと考えられますね。
邪馬台国VS狗奴国は、魏VS呉の代理戦争だった?
さらに、邪馬台国に抵抗した、狗奴国は海を通して、大陸の呉と繋がっていたという説もあるくらいです。それに加えて、魏と呉の代理戦争としての要素が、邪馬台国VS狗奴国の戦いにはあったという説も頷けます。ただ、『魏志倭人伝』には、そのように、狗奴国が呉の影響を受けていたかもしれない記述は一切ありません。
それは、先ほども話したように、魏を立てるべき立場の陳寿によって書かれた『魏志倭人伝』ですから、狗奴国の存在を小さく書かれ、呉の存在が消し去られるような、プロパガンダとしての作為が見られても当然と言えるでしょうか。
邪馬台国VS狗奴国の代理戦争のまとめ
次は狗奴国の勢力がどのくらいだったかを、もう少し深掘りしていく予定です。お楽しみに。
【参考資料】
◆東国尾張とヤマト王権― 考古学から見た狗奴と尾張連氏 ―(大阪府立近つ飛鳥博物館)
◆古代史疑 - 増補新版 (中公文庫)
◆出雲と大和――古代国家の原像をたずねて (岩波新書)
◆新書821伊勢と出雲 (平凡社新書)
◆魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 (1951年) (岩波文庫)
◆東アジア民族史 1―正史東夷伝 (東洋文庫 264)
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