源倫子はどんな人?道長の正室のスゴイ[功績]

2024年3月29日


お互いに好かもな藤原道長と紫式部

 

 

NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公のまひろ(紫式部)と道長がすれ違っていく中で、存在感を増しているのが左大臣源雅信の娘、倫子です。史実では道長の正室として彰子、姸子、威子の3人の娘をそれぞれ天皇の妃とし藤原摂関家の権力を盤石にした道長の最高の相棒です。今回は、倫子の生涯を解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



左大臣源雅信の娘として誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

倫子は康保元年(964年)に左大臣源雅信の娘として土御門邸で誕生します。父の雅信は、宇多天皇の孫にあたる名門の家柄です。その家柄もあり雅信は、倫子を天皇の妃にしようと考えていましたが、年齢が近い花山天皇は2年で退位。次の一条天皇は7歳と釣り合いが取れませんでした。一方で倫子の母、藤原穆子は当時、一条天皇の摂政の地位にあった右大臣藤原兼家の五男、藤原道長に倫子を嫁がせようとします。雅信は、道長について兼家の五男で上に2人も兄がいて高位に就ける見込みが低いとして結婚には消極的でしたが、穆子は強引に縁談を進め永延元年(987年)に道長と結婚。倫子は鷹司殿と呼ばれました。

 

 

道長の勢力基盤を強化した倫子

藤原氏の全盛期を築いた藤原道長

 

倫子と道長の結婚は、右大臣家にとっても都合がよい事でした。藤原兼家は寛和の変で花山天皇を出家させ退位に追い込んでいましたが、地位は右大臣であり、その上位には左大臣の源雅信がいたからです。兼家としては道長を通して雅信と繋がる事で、雅信との衝突の緩和が出来ました。また、道長も、朝廷の中心的地位にあり土御門邸をはじめとする財産を有した雅信の婿になる事で政治や経済基盤を形成する事が可能でした。これらは、後々に道長が甥の藤原伊周と政治抗争を繰り広げる際の重要な資金源となっていきます。

 

 

夫婦仲が円満で子に恵まれた倫子

紫式部(女性)

 

倫子は、道長と結婚した翌年、永延2年(988年)に長女彰子を出産。さらに正暦5年(994年)には次女妍子、長保元年(999年)三女の威子、そして、寛弘4年(1007年)には末娘の嬉子を出産しました。この4人の娘の中で長女の彰子は一条天皇の中宮となり、後の後一条天皇と後朱雀を産み、四女の嬉子は後朱雀天皇に入内して後冷泉天皇を産んでいます。また、倫子は道長の権力を受け継ぐ男子、頼通、教通も産んでいます。娘たちが将来の3人の天皇を産む事になったので、藤原道長の権力基盤は揺るぎなくなり、息子の頼通や教通の時代まで80年も続く摂関政治の全盛期が開始されます。

 

 

道長より官位が上だった倫子

朝廷(天皇)

 

父が宇多天皇の孫である源雅信である事や、相次いで女子を天皇に嫁がせた事から、倫子は長徳4年(998年)の女叙位で従五位上に昇進し、同年10月に従三位になります。長保2年(1000年)には長女の彰子の立后に際して従二位に昇進。寛弘3年(1006年)、一条天皇が東三条邸と一条邸を御幸した際に正二位に、寛弘5年(1008年)、敦成親(後一条天皇)誕生により従一位に昇進しました。これは、夫である道長の正二位よりも上で、以後、10年間、倫子は道長よりも叙位が上でした。このように倫子が厚遇された背景には、当時、天皇の子女の教育を后の母が代行していた事が影響しています。

 

 

90歳まで長寿し摂関家を見守る

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

倫子は長和5年(1016年)道長と同時に皇族に準じた待遇を受けられる准三宮になります。しかし、万寿4年(1027年)夫である道長が死去。また長女彰子以外の娘三人も相次いで死去。倫子は哀しみの余りに長暦3年(1039年)に出家し清浄法と名乗りました。倫子は娘たちの菩提を弔いつつ、息子の頼通や教通の政治を見守り、孫の後冷泉天皇の時代である天喜元年(1053年)まで生き、90歳で亡くなっています。

 

 

まとめ

東京スカイツリー、kawausoさん

 

当時の上流貴族の正室には、地位、財産、そして最初に女子を産み、次に跡継ぎである男子を産む事が求められていました。倫子は幸運にも、これら全ての要求に答え、夫である道長を献身的に支え、藤原摂関家の80年にも及ぶ全盛期を支えたのです。当時の上流貴族にとって願ってもない理想の結婚相手こそが倫子だったと言えるでしょう。

 

▼こちらもどうぞ

虹色が7色なのは[日本]だけな理由

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-外部配信