諸葛恪は孫権が亡くなると孫呉政権のトップに君臨することになります。彼は孫呉の政権のトップに君臨するとおじさんである孔明のあるやり方をパクッて孫呉の政権を飛躍させようと考えます。諸葛恪は孔明の何をパクッたんでしょうか。
この記事の目次
孫呉政権のトップになる!!
諸葛恪は孫権が亡くなると重臣達から推挙されて孫呉政権のトップに就任することになります。諸葛恪は孫呉の政権のトップになるとどのような政治を行ったのでしょうか。
みんなのために恩恵を施す
諸葛恪は孫呉政権のトップに就任すると早速孫呉の家臣団を監視する役職を無くします。そして税金を払っていない孫呉の家臣団や民衆のために税金の帳消しを行います。このように諸葛恪は民衆や家臣団のために恩恵を施す政治を行った結果、彼の人気はうなぎのぼりに上がっていくことになり、民衆たちは彼の顔を一目見るために大勢の人が集まってくる孫呉のアイドル的な存在になっていくのでした。
さらに彼は首都の近くの堤防を修理して魏の軍勢を阻む防御地点を建設して国防のための備えもします。政治や軍事をしっかりと行っていた諸葛恪ですが、魏の大軍が堤防を破壊するために大軍を率いてやってきます。
魏に大勝利
諸葛恪は堤防を破壊しようとしてきた魏軍を打ち破るため、自ら軍勢を率いて出陣。諸葛恪率いる呉軍は魏軍と必死になって戦い、魏軍を打ち破ることに成功します。諸葛恪は魏軍に大勝利を飾り、大いに気を良くし、ある作戦を決行することにします。
君主から軍事力を行使する権力を奪う
孫権が生きていた頃の孫呉は軍事力を行使するため権力を孫権が持っていました。しかし孫権が亡くなり、孫呉のアイドル的な立場になり魏軍に大勝利を飾った諸葛恪は、君主が持っていた軍事力の行使権を奪い取ろうと画策します。さらに彼は孫呉の政権を作り出している名士中心の政権を樹立するために動き出します。
このやり方は蜀の諸葛孔明が劉禅政権の時に名士を中心とした政権を作って蜀を運営していたやり方にそっくりです。諸葛恪がこのようなやり方を諸葛孔明からパクッてやっていた可能性が十分に考えられるでしょう。諸葛恪はおじ孔明のやり方を真似してある程度の成功を収めていましたが、結局は失敗に終わってしまいます。孔明が成功したのに諸葛恪はどうして失敗したのでしょうか。
諸葛恪が失敗した原因その1:北伐に失敗したから
諸葛恪は君主が保有していた軍事力行使権を手中に収め、名士達による政権運営をある程度確立するところまで行きます。その後諸葛恪はおじ孔明が行ったように魏を討伐するため、北伐を行います。諸葛恪は孫呉の宿願であった合肥新城へ攻撃を開始します。諸葛恪率いる呉軍が優勢でしたが、合肥新城が救援軍到着まで粘ったせいで合肥新城を攻略することができずに敗北。
諸葛恪は合肥新城を攻略することができずに失敗したため、彼の人気は大いに低下するのでした。諸葛恪は北伐に失敗したにもかかわらず再度北伐を行おうと決意しますが、この無理やりに北伐を継続しようとしたことが彼の失敗の原因のひとつとして数えることができるでしょう。
では孔明は北伐に失敗した時どうしたのか。孔明は北伐に失敗した時、自らの官職を降格させることで自分の罪を内外に示し、自分の失敗を明らかにしていました。もし諸葛恪も孔明と同じように自らの罪を明らかにしていれば失敗しなかったかも知れません。
諸葛恪が失敗した原因その2:信頼関係の構築ができていない
孔明は名士中心の政権を確立することに成功していましたが、彼が成功した大きな原因の一つは君主・名士・軍を率いる将軍との信頼関係をしっかりと確立していたことでしょう。孔明は上記で上げた三つの信頼関係をしっかりと構築していたため、北伐に失敗しても誰も彼をせめることはありませんでした。しかし諸葛恪は孔明のように三つの信頼関係を構築することをしませんでした。
そのため彼が再度北伐を実施しようとしても彼に名士や軍を率いる将軍達が反対。諸葛恪はそれでも無理やりに北伐を敢行したため、彼の人気は一気に下がり、みんなから恨まれる存在になってしまいます。もし孔明のように三つの信頼関係をしっかり構築していれば、彼のやり方は成功していたかもしれません。
三国志ライター黒田レンの独り言
諸葛恪がおじ孔明のやり方を真似しようと考えた着眼点は良かったかもしれませんが、中途半端な真似の仕方をしたせいで失敗に終わってしまいます。もし彼がしっかりと孔明のやり方を研究していれば、孫呉の政権はかなり変化していたのではないのでしょうか。
参考 SB新書 三国志その後の「真実」など
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