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小栗忠順の知られざる弱点!その策略の[結末]

2024年5月1日


 

これまで歴史上の人物で、天才であるが策におぼれた人が数多くいます。この記事では、策におぼれてしまった人物として幕末の天才小栗忠順(おぐりただまさ)について取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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自分の見ていたものしか信じなかった

 

小栗忠順はアメリカの使節団に加わるなど開国派であるという印象を受けるかもしれませんが本当は攘夷派(じょういは)でした。敵を知るには敵の懐に進めという格言を実践していました。なぜ、小栗忠順は外国を見ることに積極的だったのか。小栗が勘定奉行(かんじょうぶぎょう)に就任する前、外国奉行で外国人との交渉経験が豊富でした。その経験が実際に自分で見たものしか信じなかった理由として考えられます。

 

小栗が渡米したとき、遣米使節目付(けんべいしせつめつけ)として、正使新見正興(にいみまさおき)のポーハタン号で渡米しました。このときの功績について取り上げます。

 

フィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直し交渉に挑みました。日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)で定められた交換比率が不平等で、日本国内の経済が混乱していたため交換比率の見直しの交渉をしました。小栗は小判と金貨の分析実験をもとに主張の正しさを証明しましたが、比率の改定はできませんでした。しかし、この小栗の実験と交渉にたいしてアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載しました。

 

 

自分を評価する者の意見しか受け入れなかった

 

1862年、小栗忠順は勘定奉行に就任し、財政再建に取り組みます。財政再建だけでなく、フランスからの支援を受け、軍事力も強化します。『小栗忠順とレオンロッシュ。最後までフランスが幕府を支援していた理由とは?』によれば、小栗は駐日フランス公使ロッシュの通訳と親しかった旧知の栗本鋤雲(くりもとじょうん)を通じて、フランスとのつながりを持ちました。このつながりを生かして、軍事強化のため44隻の艦船と大量の大砲や銃を購入しています。

 

フランス革命

 

当時のフランスはフランス革命後の復興途中でした。復興途中のフランスと幕政改革途中の江戸幕府と重なる部分があったことから、小栗はフランスと手を組むことを決めたと考えられます。

 

 

 

嫌いな人間の意見は正論でも受け入れなかった

勝海舟

 

小栗忠順は三河以来の高級旗本の家に生まれました。石高は数千石にすぎませんでしたが、将軍直属の部下という点で諸大名と同格でした。小栗のプライドが高かったと考えられます。一方で、勝海舟(かつかいしゅう)は父旗本小普請組(こぶしんぐみ)の勝小吉の家に生まれました。石高はわずか41石ですが、阿部正弘(あべまさひろ)に提出した意見書が高く評価され、幕臣として取り立てられました。小栗は勝海舟を嫌っていたと言われています。その原因として小栗と勝の身分差であると考えられます。

 

 

自らの策におぼれる

 

薩長がつけこむところとなるため、小栗忠順は大政奉還(たいせいほうかん)に反対しました。1867年に薩摩藩邸の焼き討ちをします。この出来事は鳥羽伏見(とばふしみ)の戦火につながりました。小栗の期待通り、薩長との武力衝突に踏み切りましたが、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗北しました。小栗は徹底抗戦を主張し、新政府軍を箱根・笛吹(ふえふき)で迎え撃つことを主張しましたが、ただちに「御役御免(おやくごめん)」を申し渡され幕府から追放されました。小栗は知行がある栃木県に退くことを決意しました。

 

新政府

 

 

小栗の知行地は会津(あいづ)越後(えちご)にも通じていて、戦争の際、要害となる場所でした。小栗は栃木県に大砲一門・鉄砲二十挺および弾薬を運びこみ、600両を投じて居館を新築しました。現地の農民を徴発して訓練していたという記録が残っています。新政府軍はこの小栗の栃木県での動きをつかむと、徳川埋蔵金を持ち出して訓練しているのではないかと考え、小栗を逮捕して問い詰めました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は策におぼれた小栗忠順について取り上げました。『小栗忠順は大蔵大臣?幕末に現れた天才の功罪』によれば、小栗忠順は栃木県内で新政府軍に逮捕されますが、取り調べがほとんどないまま処刑されました。小栗の発案した優れた近代的手法は富国強兵で模倣せざるを得ない状況が予想されたため処刑したと考えられます。

 

小栗と同じく、江戸城で新政府軍に徹底抗戦を主張した榎本武揚は五稜郭の戦いに加わりますが逮捕されていません。小栗忠順との違いはどの点にあるのかについて注目したいと思います。

 

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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