南京市にある孫権の墓。そこを訪れると孫権にまつわるエピソードを描いたレリーフが展示されています。赤壁の戦いにまつわる名場面、覇王・孫権の姿にそこを訪れた人の誰もが息をのむでしょう。
しかし、その中に1つ、異彩を放つレリーフが。いかにもな農民ルックで片手を挙げて人懐こくほほ笑むおじちゃん。周りにはたくさんの南瓜。そしてそれに「あいや!」と驚く人物…どう見ても張飛です。そのレリーフの下の説明文を読むと、どうやらこのおじちゃん、孫権らしい…!なんで孫権が南瓜畑に!?実は、孫権にはこんな逸話が残されているのです。
孫権、南瓜に出会う
戦争をすると、大抵の国は経済状況が悪くなります。赤壁の戦い以後、例にもれず経済状況が悪化した呉。そんな呉の財政を立て直すため、孫権はまず農地改革を進めようと考えます。
そんな折、孫権は武昌の外れにある水軍の野営地に視察に行きます。農地改革が念頭にあった孫権の目は自然と畑の方へ。眼前に広がる緑色の麦の苗、黄色の菜の花、…しかし農民たちが一生懸命育てているのは南瓜。何で南瓜!?孫権が疑問に思うのも当然。この一帯は水に恵まれた土地。麦や稲を育てるのに苦労することはありません。それなのに、枯れた土地でも育つ南瓜をわざわざ育てているなんて…。
その疑問に、農夫は答えます。「このあたりの土地は南瓜の育成にとても適していて、南瓜は育てやすいしたくさん実をつけるし、蓄えておくのにもいいのです。もし飢饉が起こっても、南瓜さえあれば食うに事欠きません。南瓜は半年で育ちますから。」「たった半年で!」これを聞いた孫権は目を輝かせます。
軍営地から抜け出して畑に走る孫権
孫権は南瓜の育てやすさ、保存性の良さ、生産性の高さを聞いて、一瞬で戦と結びつけたのでしょう。南瓜さえ育てられれば、食べ物に困って戦に敗れることはなくなる!
孫権はすぐに馬から降りて農民に歩み寄り、どのようにすれば上手に南瓜が育てられるのかを尋ねました。孫権は帰って兵たちに荒れた土地の開墾をすることを奨励し、自らも南瓜の栽培に取り組みました。
孫権は公務の合間を縫って南瓜の世話をしに行きました。密かに軍営地から抜け出した孫権は、馬に鞭を打ち南瓜畑へ。先のとがった麦わら帽子をかぶった農民ルックの孫権が、つやつやとした緑色の南瓜の苗に水や肥料をまいてほほ笑む姿…。想像するだけでなんだか笑いがこみ上げてきますよね。
孫権がたくさんの愛情を注いで作った南瓜は、すべて皮が薄くて肉厚でおいしく、たくさんの実をつけたのだそうです。そんなわけで、孫権の南瓜畑があったところは「瓜圻」と呼ばれるようになったのだとか。
張飛が孫権を訪ねると…
ある日、蜀の劉備の義弟・張飛が孫権を訪ねてきます。しかし、孫権はいませんでした。どこにいるかを訪ねると、「孫権様は南瓜の世話をしに行っています」との返答。
はぁ?あの孫権が南瓜の世話ぁ?さては俺を門前払いするための口実だな?何としてでも孫権に会ってやる!そう思った張飛が馬に乗って一条の用水路を下っていくと、南瓜畑が。張飛が来る人来る人全てに問うても、皆孫権が作っていると答えます。張飛もいよいよ混乱してきました。もうしばらく進むと、南瓜畑の中にたたずむ一人の老農夫を発見。わらのとがった帽子をかぶり、泥まみれになっています。
はぁ。きっとあの老農夫が南瓜を作っていたのだろう。国家の大事も終えていないのに孫権がカボチャなど育てるものか。それにしても国中の人間を使って俺をたばかるとは…。怒り狂った張飛ですが、大声を上げるわけにもいかず、矛でそこらの南瓜を突き刺して八つ当たり。
「おーい、そこの三将軍、手を止めてくれ!私の育てた南瓜を傷つけるのをやめてくれ!」その声にふと顔を上げるとびっくり!その老農夫こそ、孫権だったのでした。
この南瓜は私たちのよく知っている南瓜じゃない!?
南瓜を愛した孫権。孫権の墓に展示されているレリーフにも南瓜が刻まれていますが、実は私たちが今食べている南瓜の原産地は南米。えぇ!南京瓜、略して南瓜でしょ!?南京といえば孫呉だし!と思う方も多いと思いますが、私たちがよく知る南瓜が日本に持ち込まれたのは16世紀。ポルトガル人がカンボジアから持ち込んだものです。南米大陸が発見されたのはその少し前ですから、中国で日本よりも早く南瓜が出回っていたとしても、数十年くらいしかタイムラグがないでしょう。
そのように考えると、孫権が育てていた時代の南瓜は、私たちの知っている南瓜とは違うみたいです。孫権の育てた南瓜について調べてみるのも面白いかもしれませんね。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
関連記事:孫権の部下に三君有り!孫呉三君とはいったい誰を指すの?