去勢されている人…朝廷を操る人たち…外戚といざこざを起こして内政を混乱させる人たち…良くないイメージがつきまとう宦官。しかし、ひとえに宦官といっても、同じ人間ですから色々な人がいました。中には、人類史に貢献した偉人もいます。今回は、そんな偉大な宦官を数人紹介していきましょう。
屈辱をバネに歴史を描いた司馬遷
司馬遷は前漢時代の人。中国の歴代の正史・二十四史の筆頭にあたる『史記』を著した大人物です。日本を代表する文豪・中島敦の『李陵』には、司馬遷がいかにして『史記』執筆に至ったかが描かれています。1つの小説として語るにふさわしいほど、司馬遷の運命は壮絶なものでした。司馬遷は代々歴史を司る一家に生まれ、自身も武帝の行幸に同行しては、その土地の歴史を尋ねて歩く青年でした。
ある日、そんな彼の人生に影が差します。親友・李陵が匈奴に投降したとの一報が飛び込んでくるのです。武帝は「自決するべきだ」と激怒。多くの臣下が賛同の声をあげる中で、ただ一人、司馬遷だけが異を唱えます。李陵はたった5千の兵で野蛮な匈奴に数々の打撃を与えてきました。過去のどんな名将の功も、彼の武功には及びません。そんな彼が自害しなかったのは、生きて漢に尽くす覚悟があるからでしょう。この司馬遷の言葉がどことなく鼻についた武帝は激怒。司馬遷を投獄してしまいます。
そして、更なる不幸が司馬遷を襲います。今度は李陵が匈奴に寝返ったという知らせが飛び込んできたのです。これには武帝も怒髪天。李陵と血縁関係のあるものは全員処刑され、李陵を唯一かばった司馬遷も宮刑に処せられてしまいました。儒教を重んじた当時の人々にとって、最大の不孝は子孫を途絶えさせること。司馬遷の脳裏に自殺の2文字がよぎりましたが、亡き父が遺した歴史書を完成させるという使命を思い出し、このことに命を燃やそうと決意します。宦官となった司馬遷は中書令として武帝に仕えます。そして、武帝への憎しみを噛み潰しながら、密かに『史記』執筆に明け暮れました。臥薪嘗胆の日々を重ね、ようやく完成した『史記』。臨場感溢れる鮮やかな描写は、2千年経っても色褪せません。
実用的な紙の製造に貢献した蔡倫
後漢の宦官・蔡倫は世界史の教科書から外せない存在。私たちが現在使っている紙の原型ともいえるものを世界で最初に生み出したとされる人物です。中国では当時、何かを書き記す際には、竹簡や絹織物を使っていました。しかし、竹簡は重たい上に、パキパキと折れやすく、絹織物は高級であるために莫大な費用がかさみます。そこで、蔡倫は木の皮や麻のくず、やぶれた漁網などの材料から紙を製造。これには和帝も大喜び。以降、蔡倫の紙は改良を重ねられ、世界中に広がっていきました。今私たちがたくさんの紙に囲まれた暮らしができているのは、蔡倫のおかげなのですね。
一足早い大航海時代!?鄭和
スペインやポルトガルが一攫千金を夢見て大海原に船を浮かべた大航海時代。15世紀半ば、オスマントルコの侵略により地中海での覇権を失ったヨーロッパ諸国は、大西洋の向こうにあるであろう、まだ見ぬ土地のまだ見ぬ宝に思いを馳せました。その100年くらい前にあたる14世紀半ば頃、明には一足早く大航海時代が訪れていました。その大航海の指揮を委ねられていたのが宦官・鄭和です。鄭和は東南アジアからインド、アラビア半島、アフリカのケニアにまで繰り出し、明・永楽帝の権威を多くの国に示すことに貢献しました。鄭和は7度にわたる大航海で多くの富を明にもたらしました。
特に、キリンを持ち帰ったときは国中が大盛り上がり。中国の伝説上の動物「麒麟」とソマリ語で麒麟をあらわす「ゲリ」の発音が似ていたためだとか。
あの曹操のお爺ちゃんも宦官!?
実は、あの乱世の奸雄・曹操の祖父にあたる人も宦官でした。名を曹騰と言います。曹騰は30年以上漢王朝に仕えました。その間、多くの人材を抜擢しています。虞放、辺韶、延固、張温、張奐、堂谿典などなど、曹騰には優れた人材を見抜く審美眼があったのですね。それでも恩着せがましい態度をとることのない曹騰は人々に慕われていました。このように漢王朝に貢献した曹騰は特別に養子をとることを許されます。子を成せないために家が断絶するはずだった曹騰にとっては、願ってもいなかったこと。
早速、一族の中でも孝簾さで名高い夏侯嵩を養子に迎えたのでした。宦官・曹騰の審美眼が無かったら。曹嵩の孝悌さが無かったら。『三国志』という名前の史書は生まれなかったかもしれません。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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