三国志の曹操より130年ほど前に生まれた王充。後漢の思想家です。当時流行していた天人相関説(悪政と災害の発生とが関係するというような考え方)などを「そんなのでたらめだ!」とぶった斬った奇書『論衡』の著者として知られています。そのぶっ飛んだ考え方が曹操にも影響を与えたと言われている王充、いったいどんな人だったのでしょうか。
※『論衡』は曹操の合理主義と相通じます。曹操が『論衡』を読んだという記録はありませんが、蔡邕や王朗が読んでいたので、曹操も知っていた可能性が高いとされています。
代表作『論衡』
王充が生まれた西暦27年は、新王朝が滅んで後漢王朝が成立したばかりの頃でした。後漢は儒教を利用して統治を行っていましたが、当時は孔子を神格化したり、預言書を信じたりするような、神秘的な思想と結びついた儒教が主流でした。
そんな風潮に対し、“みんなが信じているのは嘘っぱちばかりだぜ!”と吠えたのが、王充の代表作『論衡』です。徹底した実証主義に基づいて迷信をめった斬り。体制側が儒教をたてにとって支配を進めていることにイライラしていた人たちなら“いいぞ、もっとやれ!”と思うような内容です。
曹操に影響を与えたと言われていますが、曹操も後漢の徳治主義(法律や制度より儒教的人徳を重視する考え方)にイライラしていたはずですから、『論衡』の批判精神は役立ったことでしょう。現代人の私が読んでも、毒舌芸能人のエッセイを読むような胸のすく感覚を味わうことができます。(いい子にしていれば天が報いてくれるなんて嘘だ!とか言ってもらうとせいせいする)話題が多岐にわたっているところも楽しい名著です。
斉の田氏の末裔
王充の家柄は元城王氏といって、秦帝国が天下統一する前の戦国時代に斉の国を治めていた王族・田氏の末裔です(王様の子孫だから苗字が王になりました)。宮城谷昌光さんの『香乱記』をお読みの方にはぴんとくるのではないでしょうか。
斉の田氏といえば、秦にも漢にも降伏しなかった気合いの入った王室です。最後の王様の田横は漢の高祖に呼ばれて洛陽へ向かう途中、高祖への臣従を潔しとせず、あと30里という地点で自害しました。高祖は田横に同行していた田横の食客二人を都尉に任命しましたが、二人は田横の墓前で自害しました。
高祖は田横が潜伏していた島に残っていた食客500人を招こうとしましたが、彼らは田横が死んだことを知ると全員自殺しました。……斉人、壮絶です。斉の国は現在の山東省付近にありましたが、山東省の人はよその土地に行っても方言のままで押し通す愛国心のある人たちとして有名です。そういう気合いの入った血筋を、王充も受け継いでいるんですね。
先祖は江南の暴れん坊
王充は会稽郡上虞の出身です。『論衡』にある王充の自伝によれば、王充の先祖は一つ所に住んでいられないほどの暴れん坊だったようです。
曾祖父は向こう気がつよく勇み肌で、なにからなにまで人と反りが合わなかった。
凶作の年に、勝手なことをして傷害殺人もやらかしたので、恨みをもつ敵がたくさん
できてしまった。たまたま世の中が乱れたとき、その敵の手に落ちはしないかと
気づかわれたので、祖父の汎は家族ぐるみ荷物をまとめて会稽に避難してきた。
そして銭塘県(杭州)におちつき、商業で生計をたてたわけだ。
子どもがふたりあって、上を蒙、下を誦といったが、その誦が充の父である。
先祖だいだい勇み肌のほうだったが、蒙と誦になると、いよいよはなはだしかった。
そんなわけで蒙と誦は、威勢のよさでは銭塘でもひけをとらず、はてはまた
勢力家の丁伯らと遺恨をかまえ、家族そろって上虞に移住することになった。
友達と遊ばない少年時代、勤めが続かない社会人時代
王充は幼い頃からへそ曲がりだったようです。小さい頃は、子どもどうしのなれなれしくて失敬なやりとりを嫌って子どもと遊びませんでした。虫とりや木登りにも全然興味がなかったそうです。少年のうちに父親を亡くし、郷里では母親孝行な人物として知られていました。大きくなると洛陽で太学に通い、班彪(『漢書』の編纂者班固の父)に師事しました。広く知識を求めることを好み、一字一句にはこだわりませんでした。
貧しかったため本は買わずに立ち読みしましたが、読めば暗記してしまい、百家の説に通暁しました。後に郷里に帰って人に教えを授けました。郡でいろいろな役職につきましたが、いずれも上司とのそりが合わず出世しませんでした。『論衡』の他に『譏俗』『政務』『養性』を書きましたが、この三つは散逸しています。後漢の永元年間、おそらく七十歳を過ぎてから亡くなりました。
仮借なき批判精神
王充の著作のうち、『養性』は年老いて健康を意識するようになってから書いたものですが、『譏俗』『政務』『論衡』は世の中のありさまに憤って書いたようです。王充の自伝にはこうあります。
充は、さきに世間の人情を憎むところがあって、『譏俗』という本を書いた。
また、君主たるものの政治が、ただ人民を治めようとするばかりで、そのよろしきを得ず、
なすべき術をさとらず、心配したり苦慮したりで、なりゆくさきもわからない、という
ありさまなのを憐れむがゆえに、『政務』という本を書いた。
それからまた、偽りの書物や低俗な文章など、真実でないものがたくさんあることを
嘆くがゆえに、『論衡』という本を作ったのである。
人から「おまえのほとんどの説は世間に与(くみ)しないために、おまえの文は世俗に攻撃され、多数と合わないことになっている」と批判されたことに対しては、こう答えています。
ひとびとの心は誤っており、それ(論理)に従わぬがゆえに、その偽りを取り除き、
その真実をたてようとするわけだ。
もしも、多数に従い俗心に委せねばならぬものだとすれば、古きに沿い、
お上品さを守り、古書を暗誦しているだけのこととなる。
どうしてすじみちを立てることなどできようか。
世間に迎合せず、おかしいと思うことをおかしいと言うど根性人生だったんですね。
三国志ライター よかミカンの独り言
先祖代々受け継がれてきた激しい気性のままに、出世もなげうって真実を追究しつづけた王充。その偏屈な生き様は、長いものには巻かれないつっぱり人生を歩む後世の戦士たちに勇気を与えてくれます。しびれるなぁ。
和訳引用元:東洋文庫46『論衡』 大滝一雄 訳 平凡社 初版1965年7月10日
( )内はよかミカン
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