唐(とう)の時代、安史(あんし)の乱で反乱軍に包囲された睢陽(すいよう)城を半年にわたって守備した官軍の将、張巡(ちょうじゅん)。兵糧がなくなり、自身の愛妾を殺して兵士の食料としました。
城中では次々と人を殺して食料とすることが行われ、六万ともいわれる人口を擁していた睢陽城は、落城した時にはたった400人を残すのみとなっていました。この凄惨な籠城戦の影響で、三国志演義の劉備(りゅうび)は人肉を食べるはめに。
張巡の略歴
張巡は西暦709年の生まれです。741年に科挙の難関である進士科に合格し、官僚になりました。清河(せいが)県の県令(長官)になると、県を上手に治め、困っている人がいれば財を傾けて助けていました。当時、玄宗(げんそう)皇帝の寵愛を受けていた楊貴妃(ようきひ)の親戚の楊国忠(ようこくちゅう)が権勢を振るっており、張巡が清河県での任期を終えて都に帰った時、ある人が張巡に「楊国忠に売り込みに行って取り立ててもらえば?」とすすめましたが、張巡は「楊国忠は国家をむしばむ者であり、自分は奸臣になることはできない」と断りました。
安史の乱が起こると、官軍の将として各地を転戦し、奇策を用いて度重なる会戦に勝利しましたが、睢陽城から援軍を求められて入城した後、包囲を受けて兵糧が尽き、援軍もなく、落城して捕らえられ、処刑されました。張巡は戦いの時にはいつも歯噛みをしていたため、最後には歯は三本ほどしか残っていなかったそうです。西暦757年、数えで49歳でした。
張巡の人物像
張巡は細かいことにこだわらない気高い人で、人に迎合しなかったため、計り知れない人だと思われていました。博識でいろんな本を読んでおり、兵法にも通じていました。本は三回も読めば終生忘れることなく、文章は下書きなしで書くことができました。(古文復興運動が始まる前の、ラップみたいに韻を踏んでなきゃいけない格調高く形式ばった小難しい四六駢儷文(しろくべんれいぶん)をです!)
睢陽を守備している時は、兵士や住民の名前を一度聞いたら忘れなかったそうです。用兵法は、将軍が全てを指示するという古いやり方を踏襲せず、それぞれの部隊長に自分の考えで動くようにさせていました。このことについて人から質問されると、こう答えています。
「昔の戦いは素朴だったが、現代の戦いは変化が激しい。将軍の意図を兵士に一方的に伝えるのではなく、将軍が士卒の状況や心情を知るようにし、互いに相手のしていることをよく考えるようになれば、士卒はおのずと自分の意志で戦えるようになるものだ」
合戦の時は、戦況が切迫しても後退せず、兵士に「私はここを動かないぞ。私のために戦ってくれ」と言っていたそうで、兵士は意気に感じて一人で百人分の働きをしたそうです。人を疑わず、賞罰は誠実で、兵士や市民と苦楽・寒暑をともにし、下働きの人と会う時にもきちんとした服装で礼儀正しく応対したため、下々は競って死力を尽くし、少人数で大勢と戦っても負け知らずでした。
……いかがでしょうか。万単位の人口が400人になるまで戦わせてしまう人というのは、こういう人なんですね。
兵法書『呉子(ごし)』の著者として知られる呉起(ごき)が部下の兵士の膿を口で吸い出してあげた時、話を伝え聞いたその兵士の母親は、息子がきっと呉起の恩に感じて死ぬまで戦ってしまうと思い泣いたそうですが、そんなエピソードを彷彿とさせられます。
籠城戦のてんまつ
睢陽は中原(ちゅうげん)のまんまん中にありました。周囲の城市が続々と反乱軍に投降する中、睢陽が陥落すれば長江北岸までが全て反乱軍の手に落ちる恐れがあり、張巡と睢陽城主の許遠(きょえん)は徹底抗戦を決めました。睢陽には当初、一年分の兵糧があったのですが、上役に半分を取り上げられて他の城に分配されてしまいました。
兵糧が尽き、臨淮(りんわい)や彭城(ほうじょう)に使者を送って援軍を求めましたが、いずれも断られました。援軍を送っている間に自分の城が襲撃されることを恐れたためと、張巡の声望をねたんだためです。
睢陽では兵士一人の一日分の兵糧が米6グラム弱という状況になり、馬を殺して食べ、雀や鼠を捕まえて食べ、木の皮をかじり、紙を煮て食べました。鎧や弩も煮て食べました。兵士の多くが餓死し、生きている者は弓を引く力もなくなったのを見て、張巡は愛妾を連れてきて兵士たちにこう言いました。
「諸君は長らく食べていないが忠義は少しも衰えていない。私は自分の体を割いて食べさせたいほどだ。一人の妾を惜しんで士の飢えるのを座視することができようか」(惜しんで、って。所有物扱い)そして愛妾を殺して食料とし、士卒をねぎらいました。みんな涙を流し、食べるにしのびなく思いましたが、張巡は無理に食べさせました。城主の許遠も召使いを殺して兵士に食べさせました。
城中の女性は次々と食料になり、女性がいなくなると男性のうち年老いた者や幼い者が食料となり、食べられた人間の数が二、三万にのぼっても、城内の人心は最後まで離れませんでした。睢陽の頑強な抵抗が功を奏し、官軍は反乱軍から洛陽(らくよう)を奪還することができましたが、それは睢陽落城の十日後のことでした。
張巡の評価
当初、張巡について「孤立無援の絶望的な状況になった時点ですぐに降伏して人命を損なわないようにするべきであったのに、そうせずに食人を強いるとは、まともな人間のすることではない」という論がありました。しかし、李翰(りかん)らの名士が「張巡の頑強な抵抗のおかげで淮河・長江流域が保たれ天下が失われずに済んだ」と彼の功績を強調すると、異論をさしはさむ人はいなくなりました。
『旧唐書(くとうじょ)』でも『新唐書(しんとうじょ)』でも、「忠義」というタイトルのところに張巡の伝があり、張巡のことを悪く書いてはいません。『新唐書』ではヒーローみたいな書きぶりになっています。(先ほど書いた張巡の略歴や人物像はおおむね『新唐書』から抜粋しています。
「~でした」と断定的にご紹介しましたが、内心ちょっと盛られてるんじゃないかと)
三国志演義への影響
「人肉を食べてまで頑張ったのです。」ということが、「忠義」として評価されるというこの流れ。後世に「人肉を供することこそ最上級の忠義のあかし」というようなトンデモ解釈をされることになります。そして、三国志演義では劉安(りゅうあん)という人が劉備(りゅうび)をおもてなしするために自分の奥さんを殺してその肉を劉備に食べさせたというトンデモエピソードが生まれました。
他の影響としては、『新唐書』で張巡が奇策を用いて度重なる勝利をおさめたことを記すヒロイックでドラマチックな書きぶりが、三国志演義における諸葛亮(しょかつりょう)の天才軍師ぶりの描写の参考になっています。諸葛亮が赤壁(せきへき)の戦いの前に曹操(そうそう)軍から十万本の矢をだまし取るというエピソードは、張巡伝のパクリです。
三国志ライター よかミカンの独り言
現代の中国の人が書いているブログ記事を漁ってみたところ、ほとんどは「食人はいけないことである。張巡はしかたなくやっただけである。張巡の忠義と将才については評価する」というような論調です。ちょっと気になるのが中華人民共和国国防部のブログの「杀妾飨士-――张巡(唐)」という記事で、張巡の指揮官としての有能さばかりに注目する内容で、食人ついてはスルーされています。そこんとこ、国防部はどういうお考えなんだか……
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