三国志が始まることとなったきっかけは後漢王朝の政治のやり方に不満を持った民衆たちが激怒。そして彼らは当時流行っていた張角(ちょうかく)を教祖とした黄巾党の元に集まり、張角と共に反乱を起こします。
この反乱を黄巾の乱といい、この反乱がきっかけで後漢王朝は滅亡への坂を転がっていくことになります。しかし後漢王朝はどうしてこのように民衆から恨みを買うような王朝へと変化していくことになったのでしょうか。その原因は皇帝の親戚である外戚(がいせき)と呼ばれる勢力と皇帝の宮中の世話を行っていた宦官達との争いが原因と言われております。
この記事の目次
外戚とは一体何?
まず外戚とは一体どのような物なのかを説明していきたいと思います。外戚とは皇帝の奥さんである皇太后の親族のことを言います。彼らは皇帝の奥さんである皇后の口添えによって高い位に登って、権力を高めていきます。
後漢王朝初期は高いくらいに登っている外戚といえども皇帝がしっかりとしていたため、彼らは横暴な振る舞いをせずにいましたが、後漢王朝中頃になると皇帝に付いた人物は非常に幼く皇太后が後見人として政治を行っていくことになります。彼女は親族である外戚の助けを得るために彼らに高い地位を授けて、政治に関与させていきます。そのため外戚が後漢王朝で非常に強い権力と力を有していくことになり、宮廷内で横暴を極めていきます。
後漢王朝を腐敗させた原因
後漢王朝の中頃は外戚が幅をきかせておりましたが、後漢王朝滅亡への道を作り出したのは8代皇帝順帝の時代に皇太后の外戚として力を持った梁冀(りょうき)と言われる人物です。彼は8代皇帝である順帝が幼帝であったため後見人としてこの皇帝を補佐することになった梁皇后の一族。
8代皇帝から、9代皇帝沖(ちゅう)帝、10代皇帝質(しつ)帝、11代皇帝桓(かん)帝の四代の皇帝に仕えることになり、この四代の皇帝は全て幼い皇帝であったため外戚である梁冀がやりたい放題、後漢王朝の政治を行っていった時代でもあります。彼が後漢王朝の政治をやりたい放題行った事がきっかけで後漢王朝はみるみる弱っていくことになります。
梁冀はどのような横暴を行ったのか
梁冀は後漢王朝の外戚としてやりたい放題行っておりましたが、実際どのようなことを行っていたのでしょうか。彼は順帝の時代に大将軍の位を与えられたことをいい事に、金持ちの人物を罪に陥れて殺害して、殺害した金持ちが蓄財していたものを強奪。
また10代目の皇帝である質帝を毒殺してしまいます。皇帝を毒殺した理由は、百官が集まる会議の席上で質帝が梁冀を見つけて名指しで悪口を言ったことがありました。百官がいる中で皇帝から叱責を受けた梁冀は、この皇帝に恨みを持つことになり機会を見て食事に毒をぶち込んで殺害してしまいます。こうして皇帝殺しを平気で行うような極悪非道な外戚でした。
桓帝即位に貢献した曹操の祖父ちゃん
梁冀は次の皇帝に誰を据えようか考えた結果、一番操りやすそうな人物である桓帝を皇帝の位につかせます。この時文武百官から反対をうけた梁冀ですが、彼らの意見を無視して強行的に桓帝を皇帝にします。この時一人の宦官が梁冀を手伝って桓帝を皇帝に据えます。
その宦官こそ曹操の爺さんである曹騰(そうとう)です。彼は桓帝の皇帝就任に力を尽くしたことがきっかけで一気に昇進することになり、宮中で大いにその権力を伸ばしていくことに成功します。また彼は梁冀から特権として養子を貰ってもいいという許可をもらいます。
曹騰は養子を夏侯(かこう)氏から貰い、この養子の名前を曹嵩(そうすう)と言います。そして曹嵩の息子が後に三国志の魏を創り出す事になった英雄・曹操へと血筋がつながっていくことになります。こうして曹騰の手助けもありなんとか桓帝を即位させることになり、再び横暴の限りを尽くしていく梁ですが、かれの横暴もついに終止符を打つ時がやってきます。
梁冀一族を倒す
桓帝は梁冀が横暴の限りを尽くして政治を行っていることに嫌気が差して、彼を大将軍の位から追ってクリーンな政治を行いたいと考えます。そこで彼は宮中を取り仕切っている宦官に相談。宦官達は皇帝の意中を知ると、外戚である梁冀一族を朝廷から追い出す作戦を立てます。その後この計画は後漢王朝の後見人として政治の世界で君臨してきた梁皇后亡くなると、すぐに実行に移されることになります。
梁冀は宦官の計画によって一族は処刑され、梁冀自身も殺害されることになります。こうして外戚として強い力を持ち続けてきた梁一族がいなくなったことで、政治はクリーンになることはありませんでした。
外戚の次は宦官が力を振るう時代に
桓帝に協力して梁冀一族討伐に功績の会った宦官達は皇帝から信頼と権力を得ることなります。宦官達は権力を得ると自らの親戚などを太守や州の刺史にして民衆から絞れるだけ財産を絞っていき、蓄財に励んでいきます。このため外戚であった梁冀一族がいなくなった後でも政治の世界はクリーンになることはなく、後漢王朝は腐敗しきっていくことになります。
宦官VS外戚の戦いが始まる
こうして梁冀一族がいなくなった後、皇帝の奥さんとなった皇后の親戚一族が力を持つことはあまりありませんでしたが、宦官が皇帝の信頼を糧にして権力を乱用していきます。
そのため外戚であった勢力は宦官を憎み、政治の世界から追い出そうと色々な計画を立てては実行していきます。また宦官の方でも外戚の動きを察知して、外戚の勢力を弱めることで後漢王朝が続く限り、自分達がやりたい放題やっていこうと考えておりました。こうした馬鹿な争いが続いていく中第三勢力が出てくることになります。
「清流派」知識層の出現
こうした両者の争いが続くことを心配したのが清流派と呼ばれる人々です。彼ら後漢王朝を支えてきた中小の豪族出身の人々で、全うなルートで政治の世界に入ってきた知識人です。彼らは後漢王朝に就職することができましたが、宦官と外戚の争いを目の当たりにして彼らを除かなければ後漢王朝はいずれ滅びると危機感を感じます。
そして「清流派」知識層の人々は宦官と外戚の両方を批判し始めます。この批判を知った両者は彼らが徒党を組んで後漢王朝に仇なす存在であると勝手に決めつけて、逮捕していきます。この事件を「党錮の禁」と言われる事件になります。また党錮の禁は全部で二回行われるため、今回の党錮の禁を第一次党錮禁と称します。
第二次党錮の禁
後漢末期になっても宦官と外戚の勢力争いは終わることなく続いておりました。桓帝の死後新たな皇帝として霊帝(れいてい)が即位することになります。彼は桓帝の実施ではなく、貧乏な帰属であったところを時の皇太后であった董太后から推挙されたことによって皇帝の位に就任することができました。
そして董太后の一族で外戚となった董武は宦官の権力乱用を大いに憎んでおりました。そこで彼らを一掃して後漢王朝を知識層が政治の実権を握って正しい政治を行っていこうと考え、当時清流派の重鎮であった陳藩(ちんぱん)と手を組んで宦官一掃作戦を実施しようと計画を立てておりました。
しかしこの計画は宦官たちが知ることになり、清流派であった陳藩と董武は殺害され、この計画に参加する予定であった清流派の人々数百人を殺害し、朝廷で官位にあったものは追放されることになります。この事件を第二次党錮の禁と言われる物になります。その後、後漢王朝は何進(かしん)が宦官討伐作戦を実行するまで権力を乱用していくことになります。
三国志ライター黒田廉の独り言
こうして霊帝が皇帝になる数代も前から宦官と外戚との暗闘が行われており、彼らが権力を握ってやりたい放題したことが政治において公平性をなくして民を虐げていきます。その結果民衆は黄巾党に加担して、いわゆる黄巾の乱に協力して漢帝国に反旗を翻すことになります。
「今回の宦官と外戚の戦いのお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょうそれじゃまたなにゃ」
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