少し三国志に詳しくなると、特に蜀ファンの間で「馬謖の山登り」が非難されている声を耳にする事が多くなると思います。馬謖(ばしょく)が街亭で山上に布陣しなければ、、あいつのせいで北伐は失敗した等です。しかし、それを聴くと同時に、こんな風にも考えるでしょう。
「馬謖には失敗しかないのか?だとしたら孔明はどうして重く使ったのだろう?」
そうです、そういうのが大事なのです!もし、何の手柄もなしに、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が馬謖を重く扱うようならそれはエコヒイキであって、信賞必罰の方針に反する行為ですよね?実は、馬謖には孔明が信頼するに足る隠れた手柄があったのです!
南中攻略のプランは孔明と馬謖で組み立てた作戦だった!
北伐の華々しさに完全に影に隠れますが、それ以前に諸葛亮の南中平定がありました。南中は、劉備(りゅうび)が生きていた頃は服従していましたが、劉備が夷陵の戦いで呉の陸遜(りくそん)に敗北し白帝城で崩御すると、蜀との関係が悪化した呉と連携する形で、南中で高定(こうてい)が叛きます。
南中は、蜀の後背に当たり南中を放置して北伐など出来ない相談でした。そこで孔明は、関係が冷却した呉との関係修復を急ピッチで行い、孫権(そんけん)が南中の高定を支援する事を停止させた上で討伐しようとしますが夷陵の敗戦で多くの人材を失い、任せる事が出来ず親征を考えます。
この時に、南中平定のプランを孔明と練ったのが、何を隠そう、馬謖だった可能性が高いのです。
襄陽記にある馬謖と孔明の数年来の計画
蜀書 馬謖伝を補う、襄陽記には以下のような記述があります。建興三年(西暦225年)、諸葛亮は南中に遠征し、馬謖はこれを送ること数十里、諸葛亮曰く、「共に謀ること歴年であるが、今、更(あらた)めて良計を示してくれ」
この、共に謀ること歴年というのは、示唆に富む発言です。というのも、高定が叛いたのは、劉備の死の前後で西暦223年、諸葛亮が南中遠征をしたのは、225年、つまり2年後の事なのです。2年間、高定をのさばらせたのは、孔明が親征し疫病に罹って病没する事を心配した経済官僚の王連(おうれん)などの反対なのですが、それ以前に、不慣れな南中攻略の為に、繰り返しシュミレーションをしていた為でしょう。
そして、襄陽記の共に謀る事歴年とは、孔明の南中遠征シュミレーションの相手が馬謖に他ならなかった事を示しているのだと思います。王連を含め、多数を占めた南中遠征反対の空気の中で、遠征賛成派で共に計略を練った相手が馬謖であったとすれば南中遠征の成功後、孔明が益々、馬謖を頼りにし、軍を任す気になったのも頷けます。
馬謖のアドバイスが七縦七禽を産んだ
この南中遠征の直前に孔明に良計を求められた馬謖は、「戦争は城を攻めるのは下策、心を攻めるのが上策」として、無意味な殺戮を行わず、首謀者だけを斬るように進言し南中の民の反感を回避それが、漢族にも夷族にも人気があった孟獲(もうかく)を七度捕えては、七回放つ、七縦七禽(しちじゅうしちきん)に繋がりました。
南中の遠征は10カ月にも及び、馬忠(ばちゅう)と李恢(りかい)が活躍しますが何十年もかかるのがザラな異民族平定を10ヶ月で済ますのは超スピード解決でありやはり、孔明が孟獲と結んで南中の人心を手懐けたのが大きいでしょう。馬謖のアドバイスは、漢族の命令には離反しやすいが地元有力者の意向には従順な異民族の性格を熟知した対応であり、やはり、かなり南中の状況を調査した上での結論ではないかと思うのです。
三国志ライターkawausoの独り言
以上、馬謖の手柄について書いてみました。自身は成都に残った馬謖ですが、孔明と知恵を絞って考えた遠征プランはしっかりと活かされ、だからこそ孔明は、益々馬謖を信頼して、自分の後継者として目するようになったのでは、ないでしょうか?下手に軍隊を率いずに、ずっと文官として孔明の参軍だったなら、彼は司馬懿(しばい)相手にも大活躍したかも知れません。
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