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西郷隆盛の少年時代![実は剣士を目指していた?]

2024年10月29日


 

 

2018年度のNHK大河ドラマ西郷どん、明治維新を達成した日本史の偉人西郷隆盛の生涯を一年間で描いていきますが、そんな西郷どん。子供の頃は剣士になりたいという夢を持っていたって知っていますか?あんな大柄な西郷どんが剣士と言ってもイメージが湧きませんが、それはともかく、剣士にあこがれていた西郷どんが、どうして剣を捨てたのかを解説していきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西郷隆盛が刀傷を負った理由

 

西郷どんは、子供の頃から、とても大柄な体格をしていましたが、穏やかで物静かな性格をしていました。元々、話すのが得意ではない西郷どんは、恵まれた体格を活かして剣の腕で生活を立てようと思うようになります。薩摩藩は、薩摩示現流が盛んな所で武が讃えられる風土ですから、剣術師範として、生きていこうとしたのでしょう。しかし、ある事件で彼は剣士としての道を絶たれるのです。

 

 

西郷隆盛の子供の頃の逸話

 

それは、9月14日の妙円寺詣りの時に起こりました。寺に一番乗りした方限(ほうぎり:エリア)の子供には藩から褒美が出るというこのイベントに西郷どんたち下加治屋町方限の少年達は、一番乗りを目指し走っていました。その途中、上方限の少年たちと遭遇、誰が一番乗りするかで二つのグループは大喧嘩を開始してしまいます。この時は、西郷どん達が勝って、上方限の少年たちを組み伏せて見事に妙円寺に一番乗りし、褒美をもらえたのです。

 

ところが、その事でプライドを潰された上方限のリーダーの横尾三郎という少年が、下加治屋町の少年たちを憎み、翌日、藩校の造士館から帰宅する西郷どんを待ち伏せ背後から刀で斬りつけてきたのです。西郷どんは、あっと思って横尾を取り押さえて、川に放り投げて立ち去りました。ですが、夢中で気づかなかっただけで、西郷どんは、実は右肩を斬られ骨が折れていたようです。この為に、後遺症で段々と右腕が曲がらなくなり、西郷どんは、剣士になる夢をあきらめたのでした。

 

別に西郷どんだけが悪いわけでもないですが目立つ体格と風貌をしていた事が仇になり西郷どんの剣士になる夢は奪われたのです。

 

 

薩摩藩の幼い子供たちと剣士(剣術)の関係

 

薩摩武士の子供たちと剣術は切っても切れないものでした。まず、薩摩藩は300諸藩の中でも屈指の武の藩であり、礼儀知らずより、嘘つきより、臆病である事が最大の恥です。臆病を克服する為にも心身の鍛錬は必要で、その心身を練るのに、剣術の修業は大いに役立ったのです。この剣術は、真陰流、一刀流など諸流派がありましたが、圧倒的に人気があったのは、示現流の分派である東郷流や、薬丸流でした。

 

猿叫と奇声をあげて斬りかかる薩摩藩士

 

示現流は特殊な剣術で、防御の構えがありません。チェストと叫ぶや全身全霊を込めて剣を振り下ろして受ける刀ごと、相手を真っ二つにします。逆にもし、かわされれば、前につんのめり体制を崩します。普通なら、そこで斬られて終わりでしょう。だからこそ、薩摩藩士は、常に死の覚悟で一回きりの初太刀を振りかざすのです。

 

 

幼い西郷隆盛は剣術を諦めてどうしたのか?

 

剣術を諦めた西郷どんは、学問に積極的に取り組むようになり、後輩に学問を教えるようになります。これにより、文字と算術に明るくなった西郷隆盛は、郡方書役に採用され、農村を回って年貢の徴収や橋や道路のような公共物の修理などを任される事になります。

 

西郷どんというと、物事に拘らない人柄にあわせて、経済に暗いどんぶり勘定のイメージが根強くありますが実際には文単位でお金を管理する几帳面な役人だったのです。そして、この時、貧困にあえぐ薩摩の農民を見た事が、西郷どんの関心を薩摩藩の政治改革に向かわせる事になります。もし、西郷どんが右肩を負傷しなかったら、彼が農政官になる事はなく、薩摩の政治を批判して、意見書を藩に出す事もなかったかも知れません。

 

正座をしている島津斉彬

 

そうなると、島津斉彬が、西郷どんの意見書を見る事もなく西郷どんは、薩摩から出ることなく一介の剣術師範で一生を終えたのかも知れないのです。それだと西南戦争も、もちろんなく、西郷どんも長生きして子孫に囲まれて幸せに暮らしたかも知れませんね。

 

 

西郷隆盛は力士を目指した?相撲がめっぽう強かった

 

剣士を諦めた西郷どんですが、若い頃は相撲も好きでした。江戸に行ってからも、若い者同士で相撲を取り、夢中になりすぎて、越前藩士の橋本左内(さない)が訪ねてきたのに気が付かず、長らく待たせてしまった事があるようです。西郷どんは恵まれた体格で相撲がめっぽう強い人でした。

 

現代の感覚だと、相撲好き=力士になるの?と思いがちですが、幕末の頃の相撲は、力士だけが取るのではありません。当時、相撲は白兵戦の為の武術であり、刀が使えなくなった時に取っ組み合いで敵を組み伏せ首を取る為の生々しい殺人術です。

 

 

戦国の風雲児、織田信長も、相撲好きで知られていますが、本人も積極的に相撲を取り白兵戦の鍛錬をしています。薩摩藩の郷中教育にも、しっかり相撲が入っていますからこれも自己鍛錬の一種だったのです。なので、西郷どんは力士になりたかったわけではありません。

 

 

西郷どん解説者 kawausoの独り言

 

元々は剣士になりたかった西郷どんは、逆恨みによって、刀を右肩に受けてしまい、剣士になる夢を絶たれました。しかし、その事で落胆することなく、今度は学問にはげみ、農務官として、百姓の貧しい暮らしに接する間に、農民を虐げる藩の政治に疑問を持ち、社会改革に目覚めていきます。剣士の道を捨てた時に、西郷どんは政治家・革命家への道を歩むことになったのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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