ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志の天才たち」のコーナーです。
「馬氏の五常」のひとりとして有名な馬謖(ばしょく)。諸葛亮孔明にその才を愛されたこともよく知られています。
馬謖が主将として臨んだ「街亭の戦い」については以前触れました。馬謖は諸葛亮孔明の指示に従わず山上に陣を置いたことによって敗戦しました。この敗戦が北伐の致命傷となり、諸葛亮孔明は第一次北伐を諦めて退却したのです。
その後、敗戦の責任をとるために諸葛亮孔明は自らの階級を三階下げてほしいと君主たる劉禅(りゅうぜん)に願い出ています。そして馬謖を処刑しました。「泣いて馬謖を斬る」のシーンです。
裴松之の注釈
三国志「正史」に注釈をつけ、補完作業を行った裴松之はこの時の馬謖の様子をこう記載しています。諸葛亮孔明は馬謖を我が子のように思い、馬謖もまた諸葛亮孔明を父として思っていた。そこで「かつて舜が鯀を誅し、その子である禹を採り立てたようにしていただけたら、私は死すとも恨みませぬ」と馬謖は諸葛亮孔明宛てに手紙を書いたそうです。
諸葛亮孔明は涙を流しながら馬謖の処刑を命じましたが、その遺児は処罰されることなく以前と変わらぬ待遇を受けたと記されています。諸葛亮孔明の思いやりの心を表すエピソードですね。互いに信頼していたことがうかがえます。その他、馬謖は処刑されずに獄死したという説もあります。どちらにせよ諸葛亮孔明は、その才を愛した馬謖を許すことはしなかったのです。
陳寿による記録
「泣いて馬謖を斬る」のエピソードはこのような美談としても語られることがありますが、実は許すに許せない行為が馬謖にはあったという話もあります。
街亭の戦いは主将に馬謖、その副将に王平(おうへい)が付けられました。後詰は向朗です。山上に陣を置こうとする馬謖を王平は止めます。
諸葛亮孔明の指示が敵を倒すことではなく、この街亭を守り切ることだったからです。しかし字も読めない王平を馬鹿にしていた馬謖はその助言を真っ向から否定し、異論があるなら私兵で好きにしろと言い放ちました。王平は山麓の下り坂の両側の林に私兵を五百ずつ配置します。
街亭に進軍してきた魏の張郃は街亭をすでに押さえられていることに驚きましたが、敵陣が山上にあるため喜びました。五万の兵で麓を囲い、水源を断ちます。打つ手がなくなった馬謖は最終的に山を攻め下りますが、兵の半数を失いました。そして後詰の向朗のところにたどり着きます。二人は親友同士でした。
このとき、馬謖は向朗に驚くべき提案をします。「呉に逃亡するから手を貸してほしい」向朗は王平が戦死していたらいくらでも言い訳できるから様子を見ようと答えます。一方、張郃は馬謖を追撃しようとしましたが、王平の伏兵に気が付き、警戒して兵を止めています。王平は馬謖の率いていた敗残の兵を収容してから退却しました。慌てて馬謖は呉に逃亡しようとしましたが、失敗し捕らえられたのです。
戦後処理
戦後、王平は評価されて参軍に任命され、討寇将軍の称号を受けています。丞相長史だった向朗は馬謖の亡命を手助けしたとして免職。馬謖の下で参軍だった陳寿の父親は頭髪を剃る刑(髠刑)に処されています。
正史を編纂した陳寿には父親が処分されたことも、馬謖がなぜ処刑されることになったのかもよくわかっていたことでしょう。馬謖は敗戦したうえに、その責任から逃れるため亡命しようとして処刑されたのです。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
「泣いて馬謖を斬る」そこには潔く処刑された馬謖のイメージがありますが、実は山上に陣を置いて敗北しただけでは処刑されていなかったかもしれないのです。亡命まで試みたために処刑され、その情けなさに嘆いて諸葛亮孔明は涙したのかもしれません。
皆さんはどうお考えですか。
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