曹操(そうそう)の後継となり、初代魏王朝の皇帝として君臨していた曹丕(そうひ)。彼はイジメの達人であり彼にいじめられた被害者は跡を立ちません。一例を上げると徐州にいた劉備を討伐する際、曹丕と一緒に出陣していた王忠(おうちゅう)という人物です。
彼は諸将の前で曹丕のイタズラで馬に髑髏を括りつけられて大笑いされることになります。また魏の名将として名高い于禁(うきん)も曹丕のイジメに遭ってしまいます。
彼の場合は曹丕からのイジメに遭って亡くなってしまうのです。これほど被害者を出していながら曹丕は武将いじめをやめずに行っていくのです。今回は新たに曹丕にいじめられていた武将が発見されたのでご紹介したいと思います。
蜀の名将・黄権・致し方なく魏へ降伏
劉備は関羽殺害の実行犯で同盟を破棄した孫呉を討伐するべく大軍を率いて、出陣します。黄権は劉備が孫呉討伐に出陣する際劉備へ「陛下。呉軍の兵士は勇猛果敢であると聞き及んでおります。また我が軍の水軍は長江を下っていく為進むのは容易いですが、退却する際は長江を登っていかなくてならないため、容易ではありません。そこで私が蜀軍の先駆けとして進み、陛下には後詰としてきて頂ければと思います。」と進言。
劉備は黄権の意見を採用することなく先陣で進んでいきます。
その後劉備軍は陸遜(りくそん)の火計にはまってしまい大敗北。黄権は呉軍のせいで道路が寸断されてしまったため、指揮下の軍勢を率いて致し方なく魏へ降伏することにします。
曹丕からの問いかけ
魏は黄権が降伏してくると快く彼を迎えることにします。曹丕は黄権を呼んでなぜ魏に降伏したのかを知りたく彼を首都に呼びつけます。黄権は曹丕の呼びかけに応じて魏の首都へ到着すると早速曹丕から質問を受けることになります。曹丕は彼に「君は魏に降伏してきたが、陳平や韓信を見習って魏に降伏してきたのかね」と問います。
すると黄権は「私は劉備殿に厚遇されていましたが、呉軍のせいで蜀軍は大敗。その際に蜀へ帰りたかったのですが、呉軍のせいで道路が寸断されてしまい、蜀に帰ることが叶わない状態になってしまい、魏に降伏したのです。
韓信や陳平を見習ったわけではありません。」と述べます。曹丕は黄権の意見を聞いて彼を気に入り、侯の位と将軍の位を彼に授けることにします。
曹丕のいじめ
曹丕は黄権と幾度も接した結果、彼が優れた人物であると判断します。しかし黄権を驚かすと共に彼を試すためにあることを行います。曹丕は大した用事もないのに幾度も使者を彼のところに派遣します。黄権は顔色や表情を一切変えずに曹丕の元に参上。
曹丕はたわいない世間話を行って彼を帰した後、彼は側近に「黄権はどんな状況に陥っても冷静沈着に行動することができるであろう」とポツリと述べたそうです。もし慌てふためいた行動を黄権が取っていれば、于禁や王忠のようにいじめられていたかもしれませんね。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備・曹丕からその才能を認められていた黄権。曹丕が黄権をいじめようとしても彼の落ち度が見つからずに断念せざるを得ませんでした。そんな黄権ですが、彼の才能を認めた人物がもうひとり魏にいました。それは司馬仲達です。
彼は孔明に「黄権は優れて人物であり、私はいつも賞賛しております。」と手紙を送っており、彼が蜀の劉備や司馬仲達から尊敬を受けるほどの人物であり、かなり優秀な人物であったことが伺えるのではないのでしょうか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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