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豊臣秀吉の年収は足軽時代と天下人時代でどれだけ上がった?

2023年2月19日


人たらしの豊臣秀吉からのオファーを拒否する佐久間盛政

 

日本の歴史上、一番出世した男といえば、真っ先に思い浮かぶのが豊臣秀吉です。織田信長の草履取りから始まり、最後は関白太政大臣と位人臣を極めた秀吉ですが、その年収はどの程度に伸びたのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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草履とり時代 年収0円

羽柴秀吉(足軽時代)

 

秀吉が信長に仕え始めたのは天文23年(1554年)17歳頃の事で小者という奉公人扱いでした。当時の奉公人には、給与はなく衣食住を現物支給されて主人の家の雑用をしています。そのため秀吉の奉公人時代の年収は0円です。

 

 

足軽頭時代 年収800万円

殿を務めて何度も死にそうになる豊臣秀吉

 

永禄4年(1561年)木下藤吉郎と名乗っていた秀吉は足軽組頭まで出世し浅野長勝の養女で杉原定利の娘、ねねと結婚します。この足軽組頭の年収は800万円程度もありました。ちょっと見るとウヒョ!と思いますが戦国時代には経費と言う概念はなく自分の収入から部下や奉公人を養わないといけません。秀吉は裸一貫から身を起こした人なので先祖からの家来はなく無理をして自腹で家臣を養うしかないので800万円の年収でもきつかったでしょう。

 

 

長浜城主時代 年収12億円

名古屋城

 

天正元年(1573年)浅井氏が滅亡すると羽柴秀吉は北近江三郡を与えられ、長浜に城を立てて大名になります。この頃には秀吉の年収は一気に増えて12億円にまで到達しました。しかし、近江は戦乱続きで荒れていた事もあり、秀吉は人心掌握のために年貢や諸役を免除しています。すると年貢を免れられると聞いて別の土地からも農民たちが長浜に流れてきたので秀吉はムッとして年貢を引き上げようとしますが、正室のねねが取りなしたので機嫌を直し年貢の免除を据え置いたとする逸話があります。

 

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天下人時代 年収1000億円

寿命で亡くなる豊臣秀吉

 

本能寺の変後、羽柴秀吉は信長の弔い合戦として山崎の戦いで明智光秀を討ち滅ぼします。こうして信長の後継者の地位を確立した秀吉は、清須会議で討ち死にした織田信忠の子で信長の孫、三法師を織田家の後継者として立て会議をリード、領土分割で元々所有していた播磨、但馬に加え光秀の領地であった丹波や山城国、河内国を加えます。

 

晩年奇行が多い豊臣秀吉

 

その後、秀吉は敵対した柴田勝家を滅ぼし、小牧長久手の戦いの末に家康と和睦して配下とするなどし天正13年(1585年)7月11日には関白太政大臣に就任しました。この頃までに秀吉の領地は220万石となり、その1/6が秀吉の取り分として37万石、現在価値として500億円が秀吉の年収となります。秀吉は米以外にも日本各地の鉱山を直轄地にしたので、それらを含めると年収は1千億円になるかも知れません。

 

 

経営者エヴァン・スピーゲルの年収を上回る

豊臣秀吉に仕える仙石権兵衛秀久

 

ちなみに2017年の世界の経営者の年収ベスト1は、エヴァン・スピーゲルの570億円でした。秀吉の年収はスピーゲルのダブルスコア近いと言う事になりますね。こうしてみると戦国ドリームの体現者である秀吉の偉大さが分かります。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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