「禁」の字があるくらいだから、刑罰か何らかの行為を禁止していることは推測できます。しかし、見慣れない漢字なので一体どんな出来事なのか、よくわからないという読者もいるでしょう。
ここでは「党錮の禁」が起こった背景と事件の内容について紹介していきます。
党錮の禁のきっかけは和帝と竇憲の対立
9歳で後漢の皇帝となった和帝。成長するにつれ、竇憲が権力を握るのを快く思っていませんでした。
幼いときに即位した皇帝によくあるパターンです。
北匈奴遠征の際、大将軍となった竇憲。いくどかの挑戦で北匈奴を征伐することに成功します。
すると朝廷内でも竇憲の力は強くなっていきます。もともと妹が前の皇帝・章帝の皇后となったことで親戚関係を結んでいた竇憲ですが、ある事件をきっかけに投獄されかけます。そして、北匈奴を打ち滅ぼすことで罪をつぐなうと皇帝に申し出たのです。
和帝が宦官を利用
やがて、悪辣な竇憲は皇帝の座を狙うようになります。
それを鋭く嗅ぎ取った和帝は、13歳のときに宦官と組んで竇憲が持つ大将軍の印綬を取り上げます。
印綬とは将軍などの地位を示すハンコのことで、権力を象徴するものでした。そのハンコが和帝によって取り上げられたことで竇憲は力を失い、皇帝からは自殺するよう命じられます。そのとき皇帝に協力した宦官が鄭衆でした。
鄭衆は優秀な宦官だった
皇帝や後漢のためによく働いた鄭衆。無欲で周りから疎外されるような横暴な行いはしていませんでした。
問題は、そのあとに続く宦官たちだったのです。
彼らは私利私欲のために宦官の地位をとことん利用し、悪事を働きます。そこで根に持ったのが清流派です。彼らは皇帝との血縁関係のない大臣たちで、いわば自力で朝廷の権力中枢に登り詰めた大臣たち。
そして、悪い宦官たちを濁流派、自分たちを清流派と称すようになりました。
清流派が返り討ちに
西暦166年。濁流派を追い詰めるはずだった清流派は、濁流派、つまり朝廷側から侮辱されたとして牢屋に入れられてしまいます。
これが第一次党錮の禁です。
そして、第一次があるなら、第二次もあります。竇武と組んで、もう一度、濁流派を排除しようと画策した清流派。
兵を率いて宦官たち濁流派をやっつけようとします。しかし、すでに朝廷内で権力を握っていた濁流派は、皇帝が命じる勅令を偽造、竇武ら清流派を罠にはめます。清流派は、またしても牢屋に入れられます。
第一次党錮の禁から三年後のできごとでした。
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ついに党錮の禁が終結!
始まりがあれば、終わりがあるのが事件。宇宙のビックバンと同じです。
西暦176年になると党錮の禁、つまり懲戒免職の対象が清流派の家族や家来にまで及びます。
天の助けとなったのが、西暦184年に起きた黄巾の乱。追放された清流派の大臣たちが反乱に加わるのではないかと濁流派に恐れられ、解放されます。
党錮の禁は、大臣としての仕事をしないよう牢屋に閉じ込めたり、家にいるよう命じられる刑罰なので、命の危険にはさらされていません。
いわゆる軟禁状態です。
清流派さえいなければ、朝廷内では濁流派とされる宦官たちは権力をほしいままにできるので、命まで取る必要はなかったのです。
少し強引な派閥争いといったところでしょう。国会に出席できないよう野党を閉じ込めるようなイメージです。
そのため、党錮の禁は武力と武力の争いというより朝廷内の政治的な争いという色彩が強いのです。党錮の禁は何かと問われて、即答しづらいのは政治色が強く、関係が複雑になっていることに起因します。
ある事件について、よく理解できないときは背景から探っていくといいでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
大まかに党錮の禁を紹介しました。
ストーリーの中では宦官と清流派と称する大臣たちが主役になっています。皇帝はほとんど登場しません。このことから、後漢の時代は皇帝より側近たちの力の方が強いという官僚政権だったことが推測できます。皇帝は大臣たちの操り人形となって、踊らされていたのです。
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