『三国志』の時代は黄巾の乱によって幕を開けます。宦官が権勢をふるうようになり、すっかり政治が腐敗してしまった漢王朝への信頼は地の底まで落ちていました。人々の生活も心も荒み切っていたそのとき、彗星のように人々の前に突如として現れたのが張角が起こした太平道という宗教でした。
華北を中心に信者を続々と増やし、力をメキメキつけていった太平道は「蒼天已に死す黄天まさに立つべし歳は甲子に在りて天下大吉」というスローガンを立ち上げてついに後漢を滅亡に導くきっかけとなった黄巾の乱を起こしたのです。
しかし、後漢末期から三国時代にかけて人々の心の支えとなった宗教は太平道だけではありませんでした。
太平道と同じように後漢に興った五斗米道
『三国志』では太平道の陰にすっかり隠れてしまっていますが、同じく後漢末期には張陵という人物によって五斗米道という新しい宗教が興っていました。五斗米道は蜀のあたりを中心に勢力を広げ、漢中に宗教王国のような組織を形成するまでに。
五斗米道という名前は信者から五斗(約20L)の米をお布施として回収していたことに由来します。太平道と同じように呪術を使って信者の病気を治すしたり、流民に無償で食料を提供する福祉事業に取り組んだりして人々の信頼を集めていました。
しかし、曹操が漢中に入ったことによって五斗米道の王国は崩壊。ただ、五斗米道の幹部たちは曹操によって列侯に封ぜられ、重用されたそうです。
地味に信者を増やしていた仏教
中国で仏教が全盛期を迎えたのは隋・唐代ですが、仏教自体は後漢代には中国に入って来ていました。
シルクロード経由で仏像が輸入されたり仏典の漢訳が行われたりしていたようですが、太平道のように大暴れしたり五斗米道のように王国をつくったりしていたわけではないので、比較的静かに地味にその信者を増やしていた様子。東晋代に至ってようやく第一次仏教ブームが起こり、道教と混ざって中国独自の仏教が出来上がりました。
太平道の思想の基礎ともいえる道教
春秋戦国時代には老荘思想という中核が出来上がっていた道教。神仙思想に代表されるその神秘的な宗教観は人々を魅了し続け、三国時代に至ってもなお人々から根強い支持を得ていました。実は、黄巾の乱を巻き起こした太平道や漢中に王国のようなものをつくり上げた五斗米道も道教の一派です。
その後、三国時代が終わって西晋時代になると阮籍をはじめとする竹林の七賢によって厭世観溢れる道教ブームが到来しました。道教は親和性が高いようで、あらゆる思想と結びつき、現代に至るまで世界中の人々に大きな影響を与え続けています。
儒教はやっぱり大事!しかし…
漢王朝の国教として栄えていた儒教も『三国志』に描かれた時代に生きた人々の心を支えた重要な思想の1つです。後漢末期、人々は漢王朝への不満を露わにしてはいたものの数百年にわたって人々に染み付いた礼を中心とする儒教の教えはそう簡単に落ちることはなかったのでしょう。
曹操なんかもその生い立ちなどから「儒教なんてクソくらえ!」と思っている節がありますが、なんやかんやで儒教の教えに則った振る舞いをしていますしね。
ただ、その一方で後漢時代には儒教と結びついた讖緯思想がもてはやされ、どこからか見つけてきた怪しげな予言書・緯書を持ち出して「ここに予言が書いてあるよ!次のリーダーは俺だってさ!」と主張する輩たちが続出していたことの方が問題となっていましたが…。
三国志ライターchopsticksの独り言
人々の心の支えとして世界中の人々に大切にされている宗教。なんとなく宗教とは縁遠いイメージの中国人も三国時代という遠い昔から様々な宗教に心を寄せてその心や生活の安寧を手に入れようとしていたのですね。
実は、現代に生きる日本人も儒教や道教、仏教といった宗教を中国経由で受け入れて以降、知らず知らずにその心の支えとしています。日常の何気ないしぐさや考え方にそういった宗教の影響が現れていると思うので、ちょっと意識して生活してみてはいかがでしょうか?
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