kawausoは歴史ライターという仕事をやっているわけですが、ライターの素質って何なのでしょうね?一つ間違いないのは、わかりにくい文章を書く人はライター向きではないという事です。
その意味では戦国時代の英雄、明智光秀はライター向きであると言えます。それは、光秀の報告書は、とても分かりやすく織田信長が激賞しているからです。では、明智光秀の書状はどんなものだったのか実際に挙げてみましょう。
※この記事は、明智光秀 残虐と謀略 一級史料で読み解く (祥伝社新書)で読み解くを参考にして執筆されています。
この記事の目次
明智光秀の書状はリアルで衝撃的
では、織田信長が手放しでほめた明智光秀の報告書とは、どんなものだったのでしょう。下に、波多野氏の本城、八上城を兵糧攻めしていた時の報告書があります。
八上の事、助命退城候様と色を替え様を替え懇望候
はや籠城の輩、四、五百人も餓死候 罷り出で候者の顔は
青腫れ候て、非人界の躰候
下条文書
意訳:八上城からは、城を立ち退くから命を助けてくれと手を変え品を変え必死に頼んできます。すでに籠城している連中の4~5百人も飢え死にしているようで、顔を出した者達の顔たるや青膨れしていて幽鬼のようです。
簡潔な文章ながら、八上城は兵糧攻めが効果をあらわし落城寸前、あちらから、投降させてくれと願い出てくるような状態ですでに4~5百人も餓死し、生きている者の顔は青く腫れてとても人間のようにも思えないと記しています。飢餓という状況は置くとして、編集長としてこの文書を見た時に、非常に上手いなと思うのは、文章が非常にリズミカルで引っ掛からない事、そして、具体的な数値(餓死四五百)、さらに色というイメージしやすい言葉で餓死寸前の八上城内の敵兵の顔を青腫れして人間とも思えないと書いている点です。
動画はおろか、写真さえない戦国時代、戦況を伝える方法は、言葉か文書か絵くらいしかありません。速報性を考えれば、言葉か文書でしょう。光秀の報告書は、沢山の報告書を読む信長に取っても、読みやすく簡潔でインパクトがあり具体的な数値が並び、イメージしやすいという点で二重丸をあげられる内容だと思います。
実際に信長は、明智光秀に対して、
「度々報告を送ってくれており、まことに殊勝である
南方の状況(摂津方面での一向一揆・三好党との戦い)について
書中に詳細に語られており、まるで現地を見ている心地がする」
明智光秀残虐と謀略より抜粋
このような書状を送っているのです。
高島郡攻略の手紙も簡潔
もう一つ、明智光秀が高島郡の攻略をしている時に足利義昭の部下、曾我助乗に宛てた戦況報告書を紹介しましょう。
高島の儀、饗庭三坊の下まで放火せしめ、敵城三カ所落去(落城)候て
今日、帰陣せしめ候 然る処、林方より只今此の注進の如く候
然るべき様ご披露肝要
意訳:高島郡で饗場三坊の下まで焼き討ちし敵城3つを落城させて本日帰陣しました。そうしたところ、林(員清)から、今、ご報告した通りの報告がありましたので、適切に将軍(足利義昭)に披露して下さい
こちらも、戦場の場所と落とした城数が分かるように記載されています。簡潔ですが、優れた報告書であると言えるでしょう。
戦国時大名は、各地の武将から送られてくる膨大な報告書を読むのであり、どうでもいい事を長々と書かれると心底、頭にくるものです。光秀のように簡潔を旨とした書状は、そういう上司の心理を汲んだものだと言えるでしょう。
羽柴秀吉のっ書状もニュースバリューが高かった
明智光秀に負けず劣らず、ライターとしての才能があったのは羽柴秀吉です。元々、農民出身であった秀吉は、敢えて自分の字が下手である事を逆手に取りここぞという時には、祐筆を使わずに直筆文で勝負しました。
黒田孝高をスカウトする時にも、敢えて平仮名が多い直筆書状を使い、自分は字が下手だけれども恥を忍んで書く、お主を弟の小一郎同様に頼みに思っているぞ等と書いています。
上手い字で書かれると、どんな美辞麗句も嫌味に見える事があります。それが下手な字で書いたとなると、受け取る側は勝手に苦心して書いたんだと思い込んで拙い表現でも嬉しくなるものです。実際に黒田孝高は、この秀吉の拙い手紙アピールにやられて秀吉の部下になります。後の黒田官兵衛です。
織田信長も秀吉の戦況報告書を「面白い、状況が目に浮かぶ」と評しています。秀吉は大量の書状を残していて、その筆マメぶりが知られていますがこれなら、上司には可愛がられるでしょう。
例え有能でも、筆不精でどこで何をしているか分からない部下は、上司も状況を把握できずに、とても不安になってしまいます。まして、戦国時代のように大軍を預けている状況では「もしや謀反でも企んでいるのか?」と疑心暗鬼にもなります。報・連・相なんて言いますが、状況に進展があってもなくても、的確な報告をして欲しいのが上司の心理です。そういう上司の不安を和らげられるのも、筆まめな「出来る部下」の条件なのでしょう。
名将は記事を書く才能がある理由は?
明智光秀にしても羽柴秀吉にしても、文章が上手いという共通点があります。文章が上手いというのは、自分が書こうとしている事の目標が明確に見えているという事でもあります。
同時に、自分の報告を求めている人が、一体何を求めているかを知っていないといけません。自分だけの自己満足の文章を書いても「は?」と思われるだけです。そういう事が分かる人でなければ、文章に起承転結をつけて具体的な目標を立てて数値を出す事は難しいでしょう。こう考えると、名将というのは自ずから名ライターになる素質を持つという事ではないでしょうか?
敵は本能寺にありは嘘だけど
明智光秀が織田信長への謀反を決意した言葉として「敵は本能寺にあり」があります。これは後世の創作で実際には、光秀の謀反は一部の重臣しかしりませんでした。実際問題、俺信長に叛くぜと兵士にまで吹聴していたら、本能寺につく頃には信長に逃げられていたでしょう。
それは、それとして簡潔で分かりやすくニュース性のある書状を書いた光秀ですから、ひょっとしたら、ごく一部の重臣の間では、そんな合言葉を使っていたかも知れませんよ。
戦国時代ライターkawausoの独り言
宣教師ルイス・フロイスの日記によると、明智光秀は信長の歓心を買う為にありとあらゆる努力を惜しまなかったと書かれています。ここだけみると、「けっ腰巾着が・・」と舌打ちしたくなりますが、自分の命運を左右する上司の事をリサーチするなどというのは、実際には早々簡単な事ではありません。
これをライター業務に移して考えてみれば、自分が書こうとするジャンルに全力を投入していくという事を意味しています。自分が書きたいジャンルに詳しくなればなるほど、そのライターは顧客の心に響く記事を書ける可能性が高くなります。明智光秀の場合には、ここまで上司信長をリサーチし気配りを欠かさず、ナイスな報告書を書いたならそりゃあ重んじられ重大な仕事を任されただろうなと思いますね。
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