夷陵の戦いで蜀を打ち破る陸遜、彼の人生はそこがピークと言っても過言ではありません。なぜならこれほどの功績を上げながら、最期にはお家問題に巻き込まれて憤死したという晩年を迎えるからです。
今回はこの陸遜の晩年について、少しばかり考察してみたいと思います。
陸遜、丞相になるまでの経歴!
ではまず陸遜の出世街道を簡単に見ていきましょう。
222年に夷陵の戦いが起こります。この時に陸遜は孫権によって大都督に任命されます。
まだまだ経歴がなかった陸遜の大都督というのは異例で、当初は周囲からやっかまれ、お世辞にも好かれているとは言えませんでした。
しかし夷陵の戦いでの勝利から周囲は見る目を変え、その能力を認められました。その後、229年に上大将軍、右都護の官を授かります。またこの時に孫権は太子の後見役に陸遜を任命し、荊州と揚州の三郡の統治、軍事と国事の監督を委任します。陸遜は様々な仕事の傍らで太子の教育係も任されていたのです。
さてさて244年、丞相になります。この時に陸遜は荊州牧・右都護・武昌での職務も引き続き担当を任されました。とても大切なお役目ばかりを任されていることから、陸遜に対する信頼が伺えますね。
ええ、ええ。
「任され過ぎじゃないかな?」と思うほどに、大事な仕事ばかり任されているのです。
呉にとって史上最悪の、二宮の変始まる
さて時代は進み、二宮の変というお家騒動が起こります。二宮の変は二宮事件とも言い、簡単にまとめると孫権の後継者問題が最悪の状況になったものです。
多くの配下たちが巻き込まれ、処刑、流刑などの裁きを受け、呉の弱体化が進みました。武将、文官、関わった者もいれば関わっていない者たちもいたでしょう。しかし事が大きくなり過ぎていた現状では、既に収集がつかなくなっていたのです。
そしてこの騒動に陸遜も関わっているという讒言を受けたばかりに、陸遜は最後に憤死した……とされています。
陸遜の死は本当に憤死だったのか?
ここでちょっと考えたいのは、陸遜は本当に憤死したのか、ということ。この陸遜が憤死した、というのは史書に記されていることです。つまり正史で陸遜は憤死したとされているのです。ですが気になるのは陸遜の年齢、この時に陸遜は既に60を過ぎています。
この二宮の変に関して、孫権の対応が酷すぎる、既に年を取り過ぎてボケていたんじゃないか、とまで言われますが、そんなボケも疑われる孫権と陸遜は一歳しか年齢に違いがありません。要するに陸遜は十分に高齢なのです。なので陸遜は「寿命」であったことも否定できないのではないか?というのが筆者の考察です。
難しい立場にあった可能性
しかしわざわざ史書にまで「憤死した」と書くからには、相応の理由があったと思われます。三国志は陸遜が書いた訳ではありませんから、陸遜という人物の記述をした人間が別にいるのです。ではなぜ「憤死」とされたのか。
前述しましたが当時の陸遜は、何もかにもを任され過ぎです。国元にいないのに丞相にされて政治を任され、軍の統括も任され、外交の責任者でもありました。この状態で拗れに拗れた後継者問題までどうにかしてくれというのは、聊か陸遜頼み過ぎないではないでしょうか?
もしかしたら陸遜の本当の死因は、こういった面倒ごとを一挙に任され過ぎた心労もあったのではないでしょうか。自分一人では考えられないほどの仕事を任され、その上後継者問題のごたごたで国力が減っていく一方。関わりたくもない問題に自分の家まで巻き込まれる……頭を抱えるどころではありません。
下手な人間であれば全てを投げ出して隠居モノです。
だけどそんな中でも陸遜は国を見捨てなかった。それ故に心労が溜まり、既に年齢を重ねているのにここで寿命を縮めることになった。その姿を人々は憤死とした……きっと陸遜は、憤っていたに違いない……と。
そんな当時の孫呉の不安や国に対する憤りが、陸遜の最期に表れてしまったのかもしれませんね。
三国志ライター センの独り言
憤死したと言われる陸遜の最期について、ちょっと筆者なりの考察を述べてみました。
しかしその上でもなお、陸遜の晩年は酷い状態に追い込まれていることは否定しません。それも踏まえて当時の人たちは「憤死」という言葉で残したのかもしれません。陸遜がその最期に国の未来をどう見ていたのか、それはもう誰も知る由もないのです。
参考記事:
・陸遜 wikipedia
・二宮事件 wikipedia
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