今回は明智光秀と延暦寺との関係に注目します。この記事では、最初に延暦寺の歴史について紹介し、織田信長が比叡山を焼き討ちにした経緯や焼き討ち後の延暦寺について取り上げます。
延暦寺とは?
延暦寺は比叡山にあります。天台宗の開祖である最澄は19歳の頃に比叡山に入り、修行します。最澄は804年に唐に渡ると密教と禅を学びました。805年に帰国すると、最澄は天台宗を開きます。
比叡山にある延暦寺は、最澄の死後、823年に天皇から延暦寺の勅願を賜りました。これにより平安時代初期の仏教の中心となり、延暦寺は平安時代の仏教の南都(興福寺)と並ぶ二大勢力となっています。
織田信長による比叡山焼き討ち事件とは?
比叡山焼き討ちは1571年に起こりました。
当時、織田信長は越前の朝倉義景や近江の浅井長政、石山や伊勢長島の一向一揆など抵抗する勢力に苦しめられています。これらの抵抗勢力だけでなく、甲斐の武田信玄も京に向けて動き始めました。このように信長は輪を囲むように包囲されていたことから信長の勢力包囲網といいます。
織田信長は近江国の平定と包囲されている状況を打開するために浅井長政や朝倉義景を助けている比叡山延暦寺を攻撃しました。1571年に延暦寺を無力化するために、織田信長は僧や女性・子供などを殺害するよう家臣に命じます。比叡山の僧らを殺害した事件を比叡山焼き討ち事件といいます。
この事件には織田信長の家臣として明智光秀も加わりました。
比叡山焼き討ち事件後の延暦寺と門前町の坂本
はじめに延暦寺の麓にある坂本について振り返ります。延暦寺が創建されて以降、坂本は門前町として栄え、交通の要所となっていました。
明智光秀は琵琶湖沿いにあった田中城の城主でしたが、織田信長の命令によって交通の要所である坂本に城を築きます。坂本城の城主になってから、明智光秀は延暦寺にいた高僧を独断で助けました。焼き討ちで荒れ果てた比叡山延暦寺の再興に取り組み、経典などの文化財を保護しています。
明智光秀は本能寺の変後に山崎の戦いで敗れ、農民に討たれて死亡しました。坂本城は本能寺の変後に何代か城主が変わった後、浅野長政が坂本城から大津城に居城を移しました。これに伴い坂本城は廃城となりましたが、延暦寺を保護したことで坂本の人々から慕われ、坂本城跡には光秀の銅像と石碑が残されています。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は明智光秀と延暦寺との関係に着目しました。最初に延暦寺の歴史について紹介しました。延暦寺は800年代に創建された平安時代初期の仏教文化を象徴する寺院であることが分かりました。
次に、織田信長が比叡山焼き討ち事件について考察しました。最初に、織田信長の焼き討ち事件の概要を述べました。概要をまとめてから、比叡山焼き討ち事件後の比叡山延暦寺について注目しました。明智光秀は延暦寺の高僧を助けるとともに経典などの文化財の保護に努めたことが分かりました。
坂本城は浅野長政が居城を大津城に移したことにより廃城となりましたが、1979年の発掘調査までほとんど手つかずの状態で残されていました。発掘調査により坂本城跡が注目されるようになっています。
最後に、明智光秀が信長の命令に反して比叡山延暦寺の高僧や文化財を保護しました。光秀は信長に信頼されていたといわれていて、信長は光秀の保護に対して黙認したのかもしれません。
光秀が保護したことで、私たちは現代まで平安時代初期の仏教文化を知ることができます。1994年には古都京都の文化財で京都市・宇治市・大津市の文化財が世界文化遺産として登録されました。もし、明智光秀の保護がなければ世界文化遺産として残ることはなかったのかもしれません。
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