NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公のまひろ(紫式部)と道長がすれ違っていく中で、存在感を増しているのが左大臣源雅信の娘、倫子です。史実では道長の正室として彰子、姸子、威子の3人の娘をそれぞれ天皇の妃とし藤原摂関家の権力を盤石にした道長の最高の相棒です。今回は、倫子の生涯を解説しましょう。
左大臣源雅信の娘として誕生
倫子は康保元年(964年)に左大臣源雅信の娘として土御門邸で誕生します。父の雅信は、宇多天皇の孫にあたる名門の家柄です。その家柄もあり雅信は、倫子を天皇の妃にしようと考えていましたが、年齢が近い花山天皇は2年で退位。次の一条天皇は7歳と釣り合いが取れませんでした。一方で倫子の母、藤原穆子は当時、一条天皇の摂政の地位にあった右大臣藤原兼家の五男、藤原道長に倫子を嫁がせようとします。雅信は、道長について兼家の五男で上に2人も兄がいて高位に就ける見込みが低いとして結婚には消極的でしたが、穆子は強引に縁談を進め永延元年(987年)に道長と結婚。倫子は鷹司殿と呼ばれました。
道長の勢力基盤を強化した倫子
倫子と道長の結婚は、右大臣家にとっても都合がよい事でした。藤原兼家は寛和の変で花山天皇を出家させ退位に追い込んでいましたが、地位は右大臣であり、その上位には左大臣の源雅信がいたからです。兼家としては道長を通して雅信と繋がる事で、雅信との衝突の緩和が出来ました。また、道長も、朝廷の中心的地位にあり土御門邸をはじめとする財産を有した雅信の婿になる事で政治や経済基盤を形成する事が可能でした。これらは、後々に道長が甥の藤原伊周と政治抗争を繰り広げる際の重要な資金源となっていきます。
夫婦仲が円満で子に恵まれた倫子
倫子は、道長と結婚した翌年、永延2年(988年)に長女彰子を出産。さらに正暦5年(994年)には次女妍子、長保元年(999年)三女の威子、そして、寛弘4年(1007年)には末娘の嬉子を出産しました。この4人の娘の中で長女の彰子は一条天皇の中宮となり、後の後一条天皇と後朱雀を産み、四女の嬉子は後朱雀天皇に入内して後冷泉天皇を産んでいます。また、倫子は道長の権力を受け継ぐ男子、頼通、教通も産んでいます。娘たちが将来の3人の天皇を産む事になったので、藤原道長の権力基盤は揺るぎなくなり、息子の頼通や教通の時代まで80年も続く摂関政治の全盛期が開始されます。
道長より官位が上だった倫子
父が宇多天皇の孫である源雅信である事や、相次いで女子を天皇に嫁がせた事から、倫子は長徳4年(998年)の女叙位で従五位上に昇進し、同年10月に従三位になります。長保2年(1000年)には長女の彰子の立后に際して従二位に昇進。寛弘3年(1006年)、一条天皇が東三条邸と一条邸を御幸した際に正二位に、寛弘5年(1008年)、敦成親王(後一条天皇)誕生により従一位に昇進しました。これは、夫である道長の正二位よりも上で、以後、10年間、倫子は道長よりも叙位が上でした。このように倫子が厚遇された背景には、当時、天皇の子女の教育を后の母が代行していた事が影響しています。
90歳まで長寿し摂関家を見守る
倫子は長和5年(1016年)道長と同時に皇族に準じた待遇を受けられる准三宮になります。しかし、万寿4年(1027年)夫である道長が死去。また長女彰子以外の娘三人も相次いで死去。倫子は哀しみの余りに長暦3年(1039年)に出家し清浄法と名乗りました。倫子は娘たちの菩提を弔いつつ、息子の頼通や教通の政治を見守り、孫の後冷泉天皇の時代である天喜元年(1053年)まで生き、90歳で亡くなっています。
まとめ
当時の上流貴族の正室には、地位、財産、そして最初に女子を産み、次に跡継ぎである男子を産む事が求められていました。倫子は幸運にも、これら全ての要求に答え、夫である道長を献身的に支え、藤原摂関家の80年にも及ぶ全盛期を支えたのです。当時の上流貴族にとって願ってもない理想の結婚相手こそが倫子だったと言えるでしょう。
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