孫呉の大都督として活躍した魯粛。
呉書は魯粛を「方正謹厳で、自らを飾ることが少なく、その生活は内外共に質素だった。軍旅の合間にも、書物を読み、思慮は遠くに及んで、人並み優れた明察力を備えていた。周瑜亡き後の呉を代表する人物であった」と評価を下しています。このように高い評価を得ていた魯粛ですが、息子や孫も優秀な人だったのでしょうか。今回は魯粛の息子や孫を紹介したいと思います。
魯粛死す
魯粛は46歳という若い頃になくなってしまいます。孫権は周瑜亡き後、孫呉の国に多大な貢献をしてきた魯粛が亡くなると大いに気を落としてしまいますが、彼のために盛大な葬儀を執り行ったそうです。孫呉の家臣達は魯粛の死を心から悼んだそうです。魯粛は国内の人気も高かったのですが、国外からも人気があり、彼を悼んでいた人がいました。
それは蜀の諸葛孔明です。彼も魯粛が亡くなったと聞いて大いに驚き、彼の死を心のそこから悲しんで喪に服していたそうです。そして魯粛が亡くなってから数日後彼の息子があとを継ぐことになります。
魯粛の息子も優秀だった
魯粛の息子の名前を魯淑と言います。
彼も青年時代から優秀な人物として同年代の子供たちや彼を知る大人達から期待をかけられていたそうです。たぶん魯粛も彼には大いに期待していたのではないのでしょうか。そして魯粛の死後、彼があとを継ぐことになるのでした。
孫呉の重鎮の息子も認めた軍事の才能
魯淑は青年時代から優秀だったと上記で記しました。彼の才能を優秀だと見抜いた人物がいます。その人物の名を張承といいます。この張承ですが、孫呉の重鎮で孫権へ常に厳しいアドバイスをしていた張昭の息子さんです。この張承ですが、魯淑が優秀だと見抜き彼が濡須の守備から異動することになります。張承はこの時「いずれ魯淑がこの地を守り魏軍を打ち破ってくれるであろう」と予言を残して異動していくのでした。
魯淑が濡須 の守備隊長へ
魯淑は魯粛のあとをついで仕事をこなしていき、出世していくことになります。そして張承の予言どおり、魯淑は濡須の守備隊を率いる立場になります。
魏の軍勢は魯淑が守備隊を率いて守っている間は攻めてくることがなかったそうです。張承の予言は半分は外れてしまいますが(あるいは彼が優秀であったため攻めてこなかったことを考えればあたっていたかもしれませんが)、もう半分はしっかりと当たっており、魯淑が軍事指揮に関しても優秀な才能を見せていたことをあらわしていると思います。
統治力も優れている
魯淑は軍事の才能だけでなく、統治にも優れた能力を発揮していました。
魯淑が統治した土地はしっかりと法律を守って厳しく統治していたそうです。この結果、盗賊などが魯淑の治めていた土地ではほとんど出現しなかったそうです。このように軍事・統治両方の能力を兼ね備えていた人でした。父・魯粛に負けるとも劣らない能力を発揮したといえるのではないのでしょうか。
魯粛の孫は優秀なの??
では魯粛の孫はどうだったのでしょうか。魯粛の孫は魯睦と言います。彼は正史三国志にほとんど記載がありませんが、魯淑死後、彼の後を継いで兵馬を預かり、爵位も継承したとあります。そのためそれなりに優秀な人だったのではないのかなと考えることができるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志には父が優秀で息子も優秀な二代目武将が登場します。魯淑の息子も上記にしっかりと該当していると言えるでしょう。しかし魯粛の孫がどれくらいすごい人だったのかわからないので、優秀なんかわかりませんが、たぶん優秀だったんじゃないかなと思いたいところです。
参考 【正史三国志呉書】など
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