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公孫瓚、異民族に対する厳格な[一面]とは?

2024年5月6日


公孫瓚

 

騎射(きしゃ)と馬術に秀でた白馬義従(はくばぎじゅう)を率いて異民族との戦いで功績を立てた公孫瓚(こうそんさん)。彼の人生は、正史三国志においては、常に劉虞(りゅうぐ)と比較して語られており、劉虞と比べて一段、低い評価に終始しました。

 

公孫サンは英雄劉備が真似した人物だった公孫瓚、劉虞

 

特に、劉虞が異民族を徳で(なつか)かせたのに対して、公孫瓚は武力討伐を主としておりその為に、異民族に怖れられ憎まれていたのだとされがちです。しかし、それは本当なのでしょうか?ちょっと検証してみましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武断派の公孫瓚

武断派の公孫瓚

 

 

公孫瓚の異民族に対する考え方は、魏志の公孫瓚伝に引かれた魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)にあります。それによると劉虞の異民族融和策に対して公孫瓚は以下のように反論します。

 

異民族というのは制御しがたいもので、従わなくなったら討つに限ります

圧力を加えて、こちらが上だと教え込まないと秩序が保てないのです。

今、金品を与えて懐かせれば、一時は上手くいくでしょうが、

やがて、連中は騒げば金品が貰えると考え、漢を軽んじて増々騒ぐようになり

長い目で見れば、失うモノが多いのです。

 

公孫瓚は、親の仇のように異民族を討伐したので、彼らを憎悪(ぞうお)しているかのように感じてしまいますが、実際はそうではなく異民族と親しめば()れ合いになり、こちらを舐めるので叛いたら徹底鎮圧して上下関係を教え込まないといけないと説いているだけでした。

 

周瑜と陸遜

 

 

そして、このような考えは公孫瓚に限らず異民族対策のエキスパート達が多かれ少なかれ持っている統治法だったのです。

 

 

 

 

官位が低い公孫瓚には、武力による鎮圧しか手がなかった

公孫瓚

 

劉虞と公孫瓚では、地位も全く違いました。劉虞は地方官の最高位である幽州牧であり、兵力も物資も十分に保有しており、異民族には恩恵も懲罰(ちょうばつ)もどちらも与える事が出来ました。しかし、公孫瓚は騎都尉(きとい)に過ぎず、行政職でも(たく)県令でしかありません。潤沢(じゅんたく)に異民族に施すような物資はなく、与えられた兵力でひたすら異民族を鎮圧するしか方法はなかったのです。

 

 

匈奴

 

 

後に劉虞を殺した公孫瓚は、楽何当(らくかとう)のような大商人と義兄弟の契りを結び異民族との交易を盛んに行っていますが、交易の促進は、異民族にとっても必要な食糧などを毛皮のような産物と交換できるウィンウィンの機会でした。一方的に与えるではありませんが、これも武力によらない異民族懐柔であり公孫瓚がひたすら武力一辺倒ではなかった事が分かります。

 

公孫瓚と劉虞

 

もし、公孫瓚が劉虞の立場なら、劉虞ほどに徳を前面には出さなくても異民族が餓えて略奪を働くような事をしないように交易を含めて必要な措置(そち)は取ったと考えられます。

 

 

劉虞は公孫瓚を排除しようとはしていない

劉虞

 

また、劉虞にしても異民族対策で公孫瓚と対立はしたものの、その兵権を奪うような事はしていません。実際に張純(ちょうじゅん)の乱で公孫瓚が和睦が敗れるように異民族が劉虞に派遣した使者を密かに殺害して妨害しましたが、反乱の鎮圧後に、他の将からは兵力を取り上げていますが、公孫瓚の歩騎は手をつけずに右北平(うほくへい)にそのまま駐屯させています。劉虞としては、公孫瓚のような考えも確かにあるとした上で自分の信念を貫いただけで、それを理由に公孫瓚を憎んで、兵権を取り上げるような深刻な対立では189年の時点では無かったのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

後に劉虞と対立した公孫瓚は、これを滅ぼして、劉虞の部下だった漁陽の鮮于輔(せんうほ)斉周(せいしゅう)、騎都尉の鮮于銀(せんうぎん)の恨みを買いますが、別にこの報復に当初、異民族は参加していません。ただ、鮮于輔や鮮于銀は、烏桓族と繋がりが深い閻柔(えんじゅう)を引き込んだので、閻柔が烏桓や鮮卑(せんぴ)の精兵を招いて引き連れ、それに鮮于銀や斉周が集めた漢兵と併せて数万の大軍になったというのが実相なのです。閻柔を引き込まなければ、異民族が劉虞の報復に立つ事は無かったでしょう。こうしてみると、公孫瓚は異民族には取り分けて恩義も与えていないが特別憎まれてもいなかったのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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