2018年のNHK大河ドラマ西郷どん、西郷隆盛のライバルとなる徳川慶喜の父が幕末の尊王攘夷派の志士の尊敬を一心に集めたカリスマ徳川斉昭です。大河では個性派俳優の伊武雅刀さんが演じる、この徳川斉昭、実は、薩摩の島津斉彬を凌駕するかも知れない才能を秘めた天才でした。ところが、すべてにおいてやり過ぎる彼は、折角の天才を十二分に発揮できず無念の死を遂げてしまうのです。どうしてこんな事になったのでしょう?それを検証してみます。
この記事の目次
西暦1800年、部屋住みだけど父の秘密兵器、虎三郎誕生
徳川斉昭は、西暦1800年江戸小石川の水戸藩邸で7代水戸藩主、徳川治紀の3男として生まれます。三男坊なので虎三郎という幼名をつけられました。家系的に直接は繋がってはいませんが、水戸黄門で知られる徳川光圀は徳川斉昭の先祖という事になります。
斉昭には、男兄弟が3名いて長男が家督を継ぎ、上の兄と下の弟は、さっさと水戸藩の連枝である宍戸藩と高松藩に養子に出されますが、斉昭だけは30歳になるまで部屋住みの扱いでした。なんだか島津斉彬のように父に疎まれたか無能で養子の当てがないようですが、実はどちらでもなく、彼は父に聡明さを見込まれていました。つまり家督を継いだ長男に万が一の事があった場合に備えスペアとして本家にキープされていたのです。
斉昭は家庭教師格の侍講だった会沢正志斎から学問を学びますが、この会沢正志斎は、尊王攘夷思想を体系化した「新論」を書いた人でまさに尊王攘夷思想のイデオローグでした。斉昭は会沢から勤王の藩水戸藩のイズムを叩きこまれて激烈な尊王攘夷思想の持ち主になりました。
学者や下級藩士が擁立して水戸藩の9代藩主へ
さて、斉昭の父の治紀の予感は不幸にも的中してしまいました。1829年8代藩主の徳川斉脩は生来病弱な上に子供がないまま死の床につきます。ここでスペア斉昭に脚光が集まりますが、一方で徳川斉脩の正室、嶺姫の弟、恒之丞を担ぐ一派も出現しました。
嶺姫は十一代将軍の徳川家斉の娘で恒之丞も家斉の20番目の男子でした。徳川家斉は自分の子供を水戸藩の藩主にして自分のコントロール下に置きたいそんな野心があったそうです。
この方針は水戸藩の家老のようなエリート層に支持されました。一方で水戸藩の学者や下級藩士は先々代が決めたスペアの斉昭様がいるのに将軍家から養子を入れる必要性を認めないと猛反対!結局、死去した斉脩の遺書が発見され、そこに斉昭を後継者にするとあったので家老達も沈黙せざるを得ず、斉昭が9代目の水戸藩主になります。
水戸藩を大改革!日本最初の近代化を推進する
1832年藩主になった徳川斉昭は有栖川宮幟仁親王の娘吉子を正室とします。この吉子は徳川慶喜の生母でもありました。藩主になった斉昭は、生まれ持った天才と行動力を発揮します。
この頃の斉昭が行った政策は、自分を擁立してくれた戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎等を登用して藩の政治を担わせ領地の検地を行い正確な石高を割り出し、藩校弘道館を建設すると同時に各地に学校を建設し学問を奨励しました。こちらの弘道館では、ありきたりの朱子学だけではなく、天文や医学など実学を教えていて、後の大学の先駆的なモデルになります。
農業政策では、それまで奉行は任地に住まず、城下に住んで指示したので実際の農政に暗いと批判があったので、奉行は任地に住まわす土着を行います。また、それまで存在した悪税を廃止して年貢を軽くし同時に領民に質素倹約を勧めていきました。
これらの政策は藩を貧しくし、領民を富ませるもので反対も多いのですが斉昭は「最初は損しても領民が富めば税収も安定して藩も富むのだ」と言い藩政改革を断行したようです。ここまでなら、江戸時代にポツポツ出現した各地の名君もやっていますが斉昭のスケールはここから、いきなり全国規模になります。
まず、追鳥狩りという狩猟に見せかけた大規模な軍事演習を行いアジアを侵略する西洋列強に備えると同時に、藩兵の編成を歩兵と砲兵中心にして世界標準とし藩内に反射炉を設けて鋼鉄製の大砲や銃器の製造に着手します。これは、近代兵器を自前で製造し外国からの輸入に頼らないという考えであり明治政府の富国強兵策を何十年も先取りしていました。近代化と言うと、どうしても斉彬が改革した薩摩藩を連想しますが、幕末日本で最初に近代化に舵を切ったのは水戸藩でした。排外的な神道を振り回す攘夷屋の巣窟「だけ」ではなかったんですね。
善かれと思って・・幕府に睨まれて水戸藩主を首になる
斉昭は得意満面でしたし、日本国の役に立っている自負がありました。さらに斉昭は、これまでの大人しい御三家から幕府に注文をつける御三家になります。そして、「やれ、ロシアが怖いから蝦夷地を防衛せよ!」とか、「将軍が病弱ではいかん体を鍛えるように」とか、「大奥が贅沢過ぎる質素倹約!」とか小姑のように口うるさく幕府政治に口を挟むのです。
斉昭は、自藩の軍事演習を自慢気に他藩人に見せたりしていました。鉄砲の一斉射撃は他藩の人々の度肝を抜きましたが、それ以上に幕府の度肝を抜きます。江戸から近い水戸で、当時の藩の水準を遥かに超える軍備を持たれたので、斉昭は倒幕を企てているのではないか?と不信感を持たれたのです。
おまけに斉昭は尊王の観点から、外来宗教である仏教を嫌っていて、水戸藩では僧侶を強引に還俗させたり、寺院を破壊したり釣り鐘を溶かして大砲に造り変えるような事もしていました。
※還俗:坊主から一般人に戻る事
特に大奥女性は基本的に文盲で迷信深く仏教を深く信仰していたので、斉昭のやっている事への幕府の目は日に日に厳しくなり1844年に仏教の迫害や、幕府に断りなく洋式訓練をした責任を取らされ隠居させられたのです。
「そんな、、わしは日本の為に善かれと思って・・(泣)」呆然とする斉昭ですが、今更、どうにもなりませんでした。
藩士や学者の運動で復権、過激な攘夷論をブチ天下の御意見番に
斉昭の隠居後は、再び、水戸藩の家老の結城寅寿が政権を握りますが、極端に保守的な政治に、再び斉昭を支持する人々が斉昭の復権を求めて運動、その甲斐もあり、1846年には謹慎を解かれ、1849年には元藩主という肩書で藩の政治に関与する事が許されました。
1853年、ペリーがフィルモア大統領の親書を持ち浦賀に来航すると、それまで幕府ではドン・キホーテ扱いの斉昭にスポットが当たります。斉昭は海防参与(防衛次官クラス)に任命される事になります。
「どうじゃい!わしの言う事に狂いはなかったぢゃろが?ま、凡人の貴様らに、天才の考えは分からんか、まっはっは!」
任用された斉昭は、得意絶頂、先祖の徳川光圀顔負けの天下の御意見番として、開国には断固反対し、ペリーを武力で追い払えと主張、江戸を防衛する為に大砲74門と弾薬、さらに洋式帆船の旭日丸を江戸の石川島で造船して、隅田川に浮かべるなど、それまで水戸藩に蓄積された軍事技術を惜しげもなく放出しています。
しかし、意気地がない幕府はペリーの要求に右往左往した挙句に1854年、なし崩し的に日米和親条約を締結しました。「むきーーーっ!なんたる腰抜けぢゃ!もう貴様らとやってられるか」怒った斉昭は、海防参与を辞任してしまいました。
1855年斉昭は、今度は軍制改革参与に任命されます。ところが、同年に安政の大地震に遭遇、斉昭は無事でしたがブレーンだった藤田東湖と戸田忠太夫が地震で死亡してしまいます。二人は両田と呼ばれ、兎に角、行き過ぎが多い斉昭のブレーキと方向修正を担う名参謀でしたが、同時に亡くなった事で斉昭の運命にも暗雲が漂います。
将軍後継者問題!自分の助平のせいで井伊直弼に敗れる
同じ頃、幕府では病弱で後継者もいない徳川家定の後継者を誰にするかで一橋慶喜を推す派閥と紀州藩主の徳川慶福を推す派閥が争っていました。徳川斉昭は、当然自分の子である一橋慶喜を推していました。島津斉彬や、松平春嶽、徳川慶勝、伊達宗城のような開明派と呼ばれる藩主も英明の誉れ高い一橋慶喜を推して運動しています。
逆に、徳川慶福を推すのは、彦根藩主の井伊直弼など譜代の大名です。譜代とは、徳川家康が天下を取る前から徳川家に仕えている直参の家臣の事でした。さらに井伊直弼は消極的開国派であり主義も徳川斉昭とは違っていました。当初は、島津斉彬の根回しがあり水戸派が有利でしたが、途中で井伊直弼は方針転換、大奥を抱き込み大奥で評判が最悪の徳川斉昭をdisり始めます。
徳川斉昭は、非常に道徳に口うるさい反面で、桁外れの女好きでした。息子の嫁に手を出し自害させたとか、大奥女性を手籠めにしたとか色狂いのゴシップが山ほどある上に、実際37名も子供を儲けたなかなかのオットセイです。
「よく考えて下さい、一橋が上様になれば、水戸の烈公は上様の父として、大奥に出入りする事になりますぞ・・・」
井伊直弼に吹き込まれると大奥はパニックになります。
「あんなヒヒ爺が上様の父として大奥に来るなんて死んでも嫌ーーー!」
大奥の女性達は毎度のように将軍家定に「どうか一橋だけはおやめください」と直訴を繰り返しますので家定も段々、一橋慶喜が嫌いになります。島津斉彬は、イケメン老中の阿部正弘を仲介して何とか巻き返そうとしますが
「でも、水戸のヒヒ爺が来るんでしょう?ダメです。いかに阿部様の頼みでも、ヒヒ爺だけは生理的に無理」
ぴしゃっと拒否され、どうにもなりませんでした。
「水戸の烈公さえいなければ、問題はこじれなんだが・・」
島津斉彬は西郷隆盛に、このように語ったそうです。やがて、島津斉彬は国元に帰って間もなく急死、13代将軍家定も病死し、大老に就任した井伊直弼が幕府の代表となると強引に14代将軍を徳川慶福とします。徳川斉昭は、自分の助平の為に幕府政治を握るチャンスを失ったのです。
戊午の勅命が下り井伊ににらまれ完全に政治生命を絶たれ亡くなる
権力を握った大老井伊直弼は、天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を締結します。以前の日米和親条約は、外国人の船に水や薪や食料を補給したり病人を治療するなど基本的な友好条約ですが、日米修好通商条約は、港を開いて自由貿易を認めたり関税を定めたり、外国人の居留地を設定したりなど、生活に直結する条約だけに、尊王攘夷派に大きな衝撃を与える事になります。
尊王の志に厚い、水戸派の徳川慶勝や、徳川慶篤、松平春嶽、徳川斉昭などは、抗議の為に江戸城に登城して詰問しますが、井伊直弼は平謝りに土下座して、一同の怒りをかわすと、後日、登城日を無視して江戸城に上ったという理由で、次々に謹慎処分にしました。
こうして、謹慎を申し付けられた斉昭ですが、ここから禁じ手を使います。尊王藩として知られた水戸派のパイプで朝廷を動かし、戊午の密勅を水戸藩に出させたのです。この密勅の内容は、全国の藩が団結して横暴な井伊大老を排除して、幕府政治を改革せよというものでした。江戸幕府開府以来、天皇が直接、藩に命令したのは前代未聞であり、事実を知った幕府は激怒し、水戸藩に圧力を掛けて密勅を天皇に返せと迫ります。
斉昭の後を継いだ、徳川慶篤は気弱な藩主でしたが、水戸藩には、命に代えても天皇の命令を実行すべしという尊攘派と、厄介な密勅は天皇に返せという幕府恭順派が激しく対立して内輪もめを起こします。この時に謹慎していた斉昭は、密勅を隠そうとするなどしたので、井伊直弼は激怒し斉昭に永蟄居(終身謹慎)を命じました。
これが徳川斉昭の政治生命を完全に断つ事に繋がりました。1860年、8月15日、政敵だった井伊直弼が桜田門外に倒れてから5か月後、十五夜の満月を鑑賞した後にトイレに立った斉昭は心筋梗塞に倒れて急死します。享年60歳でした。
戊午の密勅は不発でしたが、幕府を大いに動揺させてしまいます。こうして、天皇は倒幕に使える事が判明してしまい、後の幕府と尊攘派の戦いは天皇の取り合いになるのです。徳川斉昭は、天皇の政治利用という現在まで繋がる日本政治のキーを発見してしまった人でもあるのですね。
徳川斉昭は身の程知らずのドン・キホーテ?
徳川斉昭は、ペリー来航時に太極砲という山なりに炸裂弾を飛ばす臼砲という大砲を開発しました。これは当時、最新鋭の炸裂弾を採用し、砲弾が途中で爆発し破片が飛び散る殺傷力が高いものでしたが、有効射程距離はペリー艦隊の大砲の半分でした。また、洋式帆船の旭日丸も隅田川の竣工では川が浅すぎて座礁し横倒しになり江戸庶民に厄介丸とあだ名をつけられたりしました。
牛で牽引する装甲車、安神車など、牛が狙撃されたら御仕舞いという変な兵器も製造しています。後世の私達から見れば、斉昭は役にも立たない兵器を製造して、身の程知らずの攘夷を決行しようとしたドン・キホーテかも知れません。ですが、斉昭の失敗はその後の日本の富国強兵の教訓として生きました。どうせ勝てないとか、俺はまだ本気だしていないとリアリストを気取り何もしなかった幕府インテリに比べれば実践して結果を出した斉昭は100倍偉かったと言えるでしょう。
西洋人は大嫌いだが西洋文明は愛好した徳川斉昭
水戸学のカリスマとして、外国嫌いの急先鋒と思われがちな斉昭ですが、彼が嫌ったのは西洋人の植民地主義であり、西洋文明が生み出した文物ではありません。実際、斉昭はカメラを愛好し島津斉彬とカメラについて手紙のやり取りをしています。斉昭が目指したのは、西洋文明を利用して西洋人を追い払うという事であり無暗に文明の利器を排斥する事ではなかったのです。
弘道館では、実用的ではない朱子学や四書五経の暗唱だけではなく、天文や医学など役に立つ技能も教えているのは、その証明と言えると思います。
幕末ライターkawausoの独り言
徳川斉昭の藩政改革による近代化は、薩摩の島津斉彬よりもずっと早いものです。もしかして、斉彬は斉昭の水戸藩の改革を薩摩藩の改革の手本にしたかも知れません。それでも、斉昭の改革が斉彬よりも知られていないのは、ひとえに斉昭が、藩外の根回しを重視しなかった点にあると言えるでしょう。
外様大名の島津斉彬の藩政改革は、御三家の斉昭よりもずっと警戒されてもおかしくはありませんが、彼は幕府に阿部正弘という理解者を持ち、京都には近衛忠煕という理解者を持ち、入念な根回しを経たので、大きなトラブルが起きなかったと考えられます。
歴史にifはありませんが斉昭に斉彬の半分の根回しの意識があれば、その評価は変わり斉彬に匹敵するか、それを凌駕する名君として歴史に記録された・・かも知れません。
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