三国志では、料理の不手際という理由で甘寧(かんねい)に殺されかけたり、「はちみつ水飲みたい」とダダをこねる袁術(えんじゅつ)に「そんなモノない!」と即答するなど料理人は、ヒドイ待遇を受けているようなイメージですが、事実は違います。
中国では料理人は厨師(ちゅうし)と呼ばれ、その腕前一本で生き抜き、時の権力者にも一目置かれた存在だったのです。
殷の湯王の宰相になった料理人 伊尹(いいん)
夏の桀(けつ)王を滅ぼして殷(商)を建国した殷の湯(とう)王の宰相の伊尹は最古の厨師でした。伝説では彼は捨て子として厨師に拾われ、料理の全てを叩きこまれ一流の料理人になったそうです。
その後、料理人を探していた殷の湯王は、伊尹の名声を聞き、これを欲しがりますが伊尹を所有していた豪族は、その腕前を惜しんで応じませんでした。
そこで湯王は、豪族と縁組をして、妃のお付料理人としてやってきた伊尹を、早速自分の料理人としました。料理人としてやってきた伊尹ですが、殷の湯王に、天下の治め方を料理になぞらえて説明し、夏の桀王の暴君ぶりに愛想を尽かしていた湯王は、ここから天下を目指すようになったと伝説には記されています。
デモンストレーションで腕前を売り込む庖人
厨師と同じような意味に庖人(ほうにん)がいます。これは包丁を扱う人ですが、春秋戦国時代の名厨師の庖丁(ほうちょう)という人物がいたので、これにあやかり料理に使う刃物を庖丁と呼ぶようになったそうです。庖丁は戦国時代に魏の恵王に仕えた料理人で、刃物一本で巨大な牛をあっという間に解体して見せて、王を感動させました。ここには、いかに自分の料理技術が優れているかを見せるという
デモンストレーションの意味があったようです。それよりずっと後の南宋の時代には、庖丁人が見物人の兵士を選んで上半身裸にして台に寝そべらせ背中に肉の塊を置いてまな板にしこれを全てコマ切れにするまで庖丁を振るうという技がありました。
肉の塊を全てコマ切れにしてから、兵士の背中から肉をどけると、背中には傷一つ無かったそうです。これも、自分の腕前を高級役人か、金持ちに買ってもらおうと行う、一種のデモンストレーションでした。
逃亡する時には厨師に化けよ!
厨師の身分は低いものでしたが、その技術は簡単には代わりがいないので貴族や金持ちの家では大事にされました。宴会の度に、客や主人から、沢山の贈り物を受けて、裕福な暮らしを送る厨師もいたのです。
そのような事もあり、乱世でも、厨師は決して殺さないで生け捕るようにという不文律があったようです。
ストレスが多い戦乱の世だから、せめて美味い物を造る厨師は、手元に残したいという考えがあったのでしょう。
それを利用して、戦乱になると豪華な着物を脱ぎ棄てて白衣になり庖丁を持って「俺は厨師だ!殺さないでくれー!」と叫びながら、逃げるような人々も出現しました。厨師だと偽って、逃げ延びようと考えたのです。
厨師だと偽り大恥をかいた県令の陸存
厨師だと偽り、上手く逃げおおせた人もいましたが大恥をかいた人もいます。9世紀の唐末の反乱、いわゆる黄巣の乱の時に、陸存(りくそん)という県令が、反乱軍の王仙芝(おうせんし)の軍勢に捕まりました。
「腐れ役人め」と、あわや、なますに刻まれて殺されそうな所を、陸存はとっさに、「私は、厨師なのです、見逃して下さい!」と嘘を言います。しかし、運が悪い事に、そこには大鍋と油と小麦粉が用意されていました。もしかしたら、食糧倉庫だったのかも知れません。
「なに?厨師だと、ちょうどいい、腹が減ったから油餅(ゆーぴん)を造ってみろ」
と陸存は命じられてしまいます。
油餅とは、小麦粉生地に野菜を包んで油でふわりと揚げた料理のようですが、もちろん、厨師とは口から出まかせの陸存に料理が出来るわけありません。悪戦苦闘しながら、小麦粉と油に塗れて、火傷しつつ頑張る事半日、それでも一個も油餅は造れませんでした。
「この嘘つきめ、もういい、どこへなりと消えろ!」
半日、陸存に付き合わされた兵士たちは呆れ果ててしまい、陸存を放り出したので、彼は殺されずに済んだようです。でも、出来ない料理を押しつけられ、散々にプライドを傷つけられてのようやくの命拾い、陸存も「厨師だなんて二度と言うまい」と思ったのではないでしょうか・・
三国志ライターkawausoの独り言
厨師は、身分制の壁が厳格だった時代、庶民が王侯貴族に一目置かれる可能性がある技能職でした。身分は低くてもプライドが高く、美味い料理を造るのに、生命を賭けた厨師は、やはり、尊敬されるに値する仕事だったのです。本日も三国志の話題をご馳走様・・
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