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正史三国志の作者・陳寿は孫呉を[皇帝]と認めなかった!?

2024年10月7日


 

現代に生きる我々に三国志がどのようであったかを伝える、貴重な資料「正史三国志(せいしさんごくし)」。正史三国志は魏書・蜀書・呉書の三つに分けられ、それぞれの国の武将や文官の列伝が記載されている書物です。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

この正史三国志の作者は蜀の国に生まれた陳寿(ちんじゅ)です。陳寿は自らが記した正史三国志において魏と蜀を皇帝としているのですが、孫権が建国した孫呉だけ皇帝として扱っていないのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫権だけ皇帝扱いされていない衝撃の事実!!

 

古代中国の皇帝であった堯(ぎょう)が亡くなった時に「崩(ほう)」の文字を使ったと「尚書(しょうしょ)」と呼ばれる書物に記載されております。正史三国志の作者・陳寿は魏を正統な王朝とし、曹丕(そうひ)曹叡(そうえい)など魏の皇帝達が亡くなった際、古代中国の皇帝・堯にならって「崩」の文字を用いてます。

 

陳寿

 

しかし陳寿は孫呉の皇帝だった孫権が亡くなった時には、曹丕・曹叡に使った「崩」の字を使わず、「薨(こう)」の文字を使っています。「薨」は春秋戦国時代に諸侯が亡くなった際に使われたそうです。陳寿は上記の事を考えると孫権を皇帝として認めず、春秋戦国時代の諸侯と同レベルとして孫呉を考えていた事が伺えます。ここで一つの疑問が思い浮かびませんか。どうして陳寿は孫権を皇帝として認めなかったのか気になりませんか。気になる方は続きを見てね

 

 

陳寿が孫権を皇帝として認めなかったのはなんで??

 

陳寿はどうして孫権を皇帝として認めなかったのでしょうか。実際のところは正史三国志に陳寿の思いが描かれていないため、分かりません。しかし推察することはできると思います。ここからは陳寿が孫権を皇帝にしなかった理由に付いて黒田レンの推測で、記していきたいと思います。

 

 

陳寿が孫権を皇帝として認めなかった理由:勝手に皇帝を名乗ったから

 

陳寿が孫権を皇帝として認めなかった理由その1として、孫権が勝手に皇帝を名乗ったからだと思います。陳寿は魏王朝を正統な王朝として正史三国志を描いており、魏の王朝を正統化しています。陳寿は魏を正統な王朝として描いている為、勝手に皇帝の位を称した孫権に対して、魏の皇帝と一緒にする訳には行きません。

 

そのため陳寿は孫権を皇帝として認めるわけには、認めなかったのではないのでしょうか。でも陳寿は蜀の皇帝に対しては魏王朝と同じ格式の文字を使っているのです。魏王朝からしたら劉備も孫権と同じく勝手に皇帝を名乗っているのに、どうして差別したのでしょうか。

 

 

陳寿が劉備を皇帝として扱った理由:陳寿が旧蜀の臣下だったから!?

 

陳寿は正史三国志・蜀書で劉備が亡くなった際、「崩殂(ほうそ)」の文字を使っています。諸葛孔明(しょかつこうめい)は「出師の表(すいしのひょう)」に、劉備が亡くなった事を「崩殂」と記した為、陳寿も正史三国志に引用したと思われます。しかしこの「崩殂」を大辞林で意味を調べてみると「天子が死ぬこと」と記しています。この大辞林の意味をそのまま引用するのであれば、陳寿が劉備を「皇帝」として扱っていると言えるでしょう。なぜ陳寿が劉備を皇帝として認めたのか。それは陳寿が蜀の臣下だったからだと言えると思います。しかし陳寿は蜀漢が滅亡した後、三国時代を統一した晋に仕えています。魏王朝の後継王朝である晋に陳寿が仕えたならば、蜀の皇帝・劉備や劉禅の扱いには十分に気をつけなければならないはずです。

 

にも関わらず陳寿はどうして蜀を皇帝扱いにしたのでしょうか。ここからは推測ですが、陳寿は自分が仕えた蜀漢こそ後漢王朝の正統な王朝として、考えていたのではないのでしょうか。蜀漢は後漢王朝の跡を引き継ぐために劉備が建国した国です。陳寿はこの蜀漢の歴史を教えられているはずで、魏を正統な王朝としながらも、蜀漢こそ後漢王朝の跡を継いだ正統な王朝であると後世に残したかったのだと思います。だからこそ劉備が亡くなった際に「崩殂」の文字を使って、皇帝として扱ったのではないのでしょうか。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

陳寿は孫権を皇帝として認めていませんでしたが、孫権の事をベタ褒めしております。陳寿は孫権の事を「才能ある者に仕事を任せて綿密に計画を練っており、春秋戦国時代の越・勾践(こうせん)に匹敵する非凡な才能を持った優れた人物である」と評価しています。このことから陳寿が孫権の事を嫌いで皇帝として認めていなかったのではなく、晋の王朝に遠慮して孫権を皇帝として認めるわけにはいかなかったと言えるのではないのでしょうか。

 

参考 中公新書 三国志 渡邉義浩著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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