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[毛沢東の生涯]中国の赤い星、その人となりとは?

2024年10月15日


毛沢東

 

 

毛沢東(もうたくとう)は、現在の中華人民共和国の建国者であり、同時に一党独裁体制の中国共産党の初期の創立メンバーの一人でもあります。20世紀に、スターリン、ヒトラーに並ぶ独裁権力を手に大粛清を行い、いまだ功罪定まらない毛沢東ですが、善悪を超えて20世紀中国の巨人である事は評論家も間違いないと断ずる所でしょう。そこで、『はじめての三国志』では、今から勉強するのは面倒くさい毛沢東の生涯を、かなり噛み砕いて、分かりやすく紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明治維新を成し遂げた日本を尊敬した少年時代

 

毛沢東(もう・たくとう:1893~1976年)は、字を詠芝(えいし)或いは潤芝(じゅんし)、潤之(じゅんし)と言い、湖南(こなん)省湘潭(しょうたん)県韶山(しょうざん)村に、父、毛貽昌(もうたいしょう)、母、文素勤(ぶんそきん)の五人兄弟の三男として生まれます。毛沢東は三男ですが、長男、次男は早く死んでいたので、事実上、毛沢東が長男という扱いを受けました。

 

父、毛貽昌は、独力で地主まで成りあがった人であり、教育と労働の重要性を知っていたので、毛沢東には子供の頃から労働させ、同時に学問をさせて勉強させました。従兄より贈られた中国の近代化を説く本に魅了された毛沢東は、愛国心に目覚め、1911年、18歳で湖南の革命志願軍に入隊しますが清朝はその半年後に崩壊し、軍は除隊になり毛沢東は学校に戻ります。1912年、毛は湖南全省公立高等中学校に入学、この頃には、日本の明治維新に関心を持ち、幕末の尊王攘夷派の僧、月性の詩を父親に贈ったりしています。

 

 

教師時代に毛沢東は共産主義思想に出会う

 

1913年には、毛沢東は、先生になる為に湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋、湖南省立第一師範学校に編入します。何度か編入を繰り返す中で本の虫だった毛は大量の本を読み、アダム・スミスやシャルル・ド・モンテスキューのような社会科学の思想に触れ影響を受けていきます。

 

1918年夏、毛沢東は、湖南省立第一師範学校を卒業。恩師の楊昌済(ようしょうさい)の紹介で北京大学の図書館にて館長の李大釗(りだいしょう)とともに司書補として勤めるかたわら、雑誌「新青年」の熱心な寄稿者となります。

 

毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀(ちんどくしゅう)、胡適(こてき)、そして銭玄同(せん・げんどう)のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席します。やがて新青年は、ソビエト革命の影響を受けて、ソビエトコミンテルンの機関紙のような存在になり、ここで毛沢東は共産主義者になりました。

 

 

よく聞くけど共産主義って何?

フランス革命

 

でも、そもそも共産主義って何なんでしょう?

 

共産主義体制を取っている国は、どれも貧乏で人権蹂躙が酷い感じがしますが、これは、共産主義と関係あるのでしょうか?まず共産主義とは、フランス革命から誕生しました。その理念は自由と平等と同胞愛ですが、その中の自由は身分や束縛からの自由、そして、平等は万民が平等に生活できるという平等でした。

 

フランス革命は王を殺して身分制を廃棄し、最初に自由を推進しました、人々に移動の自由を許し、職業や商売の自由を許し、言論の一定の自由を与えました。ですが、人間には才能の差や運があるので、成功して金持ちになる人と、失敗してより貧しくなる人が出てきてしまいます。

 

すると、毎日、食うや食わずの人は革命に疑問を抱き、自由よりも人間の平等を求めるようになります。そこには人間らしい生活など、福祉に関与するものがあり、それを達成すべく重んじられたのが平等の理念なのです。

 

現在日本でも社民党や共産党が福祉を重視するのはフランス革命の平等の観点が党の目標として存在するからです。

 

歴史的には、より資本の蓄積が少なく貧しい国は貧乏人が多いので、共産主義が成功しやすい土壌にあります。金持ちから土地や財産を取り上げて農民に配るのが共産主義政権が最初に行う事だからです。一方で、資本の蓄積が多少ある国では、貧乏人が少ないので、国家転覆を伴う過激な共産革命より穏健な資本主義を選択します。

 

資本主義の社会では自由が最優先されるので、貧富の格差は是正されにくく一方では、市場競争が健全に起きて、商品の質は高く、言論の自由があり、また複数の政党が認められるので議会政治も機能します。貧富の格差は酷いけど、自由が認められ解放感があるのが資本主義です。逆に共産主義では、平等に重点が置かれるので個人の個性や自由、そして財産は、大きな制限を受け政治体制も複数政党を認めず一党独裁が多いです。経済格差は小さいけれど自由が小さく息苦しい社会が共産主義の国です。

 

またマルクスは資本主義社会は、富の偏りが頂点に到達した時に、持たざる者が蜂起して革命が起き、富を万民が共有する社会主義体制に移行するとしているので社会主義者は、資本主義は社会主義より劣る体制だと考えています。

 

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毛沢東、中国共産党の初期メンバーになる

 

1919年、帰郷した毛沢東は、長沙の初等中学で歴史の教師になります。教師生活の傍らで湘江評論なども発行しますが、反権力志向が強い為か、省政府に4号で発禁処分をくらう羽目になります。

 

その後、西洋式の学校を建設して、その小学校長になり、同時に啓蒙的な書物を多数出版するなど多忙になります。運転資金は裕福な地主だった父の遺産から出ていたようで、この頃の毛は、かなり裕福だったようです。毛沢東は、1920年、恩師の楊昌済の娘と二度目の結婚をして男子3名を授かりました。

 

1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会に出席すぐに頭角を現して第3回大会までには、中央執行委員会の五名の議員の1名に選出されるまでになります。

 

毛沢東、国民党の下部組織としての共産党に絶望する・・

 

第3回の大会では、コミンテルンの指示で、実質、中国を支配する政党である中国国民党との連携が叫ばれ、毛沢東は共産党の幹部として長沙に行き、国民党の湖南支部を組織し、1924年には、第一回国民党全国会議に出席して、国民党中央執行委員会の候補委員に選出され、同年には国民党上海支部の幹部になります。

 

国民党と共産党というと敵対しているイメージがあり、毛沢東が、国民党の仕事をしているのは変な感じに思えますが、実際には国民党にも共産主義に共感を持つ左派や共産主義を毛嫌いする右派がいます。その中の左派が力を持って共産党との共同を求めて動きそれが国共合作に繋がったというわけです。

 

毛沢東は指導者としての地位で労働組合をオルグして構成員を増やしていましたが、暴力革命ではなく、民族主義の同盟国との関係構築を目指すという党の方針に失望、やがて、運動を離れて韶山に戻っていきます。

 

 

コミンテルンとは何?

コミンテルン

 

コミンテルンとは、共産主義インターナショナルを意味し、ソビエトが共産革命を目指す他国の共産主義者に接近し資金を与え、コミンテルンから人材を派遣して共産主義の勉強をさせ、時には武器を供与して、革命をバックアップする組織の事を意味しています。元々は世界の共産主義者が一斉蜂起して既成政権を打倒し、世界を一つの政府にするという乱暴な事を標榜していました。このような事から、日本を含む各国政府は社会主義者の運動に神経をとがらせ、その運動は国家転覆を企むとして徹底して弾圧していました。

 

暴動発生で、毛沢東、やる気を取り戻す

 

1925年、上海と広州で労働者の暴動が発生すると、一時、革命に関心を失っていた毛沢東は、やる気を取り戻し第二回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かい、1925年10月、毛は国民党中央宣伝部長代行となりました。

 

1926年12月に長沙で開かれた労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛沢東は、翌年一月から二月にかけて、湖南省における農民運動の報告書を作成しました。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛沢東の政治戦略の初期段階として注目されています。よくも悪くも当時の中国の人口の99%は農民であり、農民に着目したのは、古代の英雄同様、歴史を知る毛沢東の非凡な着眼点でした。

 

 

毛沢東中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立

蒋介石

 

国民党の総統、蒋介石(しょう・かいせき)は国共合作の結果、共産党のイデオロギーが国民党を汚染しつつあるとして警戒感を強め、1927年に上海クーデターが勃発するに至って、国共合作は崩壊しました。

 

毛沢東は、国民党との合作に尽力していましたが、あっさりと国民党と、袂を分かち、これを攻撃しはじめます。しかし、武力に勝る国民党軍に湖南省で蜂起した毛沢東の共産党軍は敗北、包囲されて外部との接触も断たれた毛は、配下の農民兵を連れて、湖南省と江西省の境にある井崗(せいこう)山に拠点を移し持久戦に突入します。何の事はない、水滸伝のように山に隠れてゲリラ戦を開始しただけです。ですが、毛沢東は、しぶといゲリラ戦を展開しがら、周辺の村々に、自分達の支配地域を広げていきます。そもそも、中国では大地主が小作人に土地を貸して高い賃借料を取っているというケースが大半なので、

 

「お前達を死ぬまで働かせて、金を貯め込んでいる鬼のような大地主をぶち殺してその土地を分け与えてやろう」

 

などと扇動すれば、食うや食わずの農民は、すぐに仲間になりました。実際に毛達、中国共産党軍は大地主を襲い一族を皆殺しにして、土地を貧しい庶民に分配していきました。これは、毛沢東の言葉では土地改革と言います。また彼等の軍隊は、ソビエトの赤軍に倣い紅軍(こうぐん)と呼んでいます。

 

このようなやり方は、中国の歴史的にもよく見られるやり方で、毛沢東は、富裕層は無残に殺しても貧民からは針も盗まないという方針でどんどん農民の味方を増やしていったのです。これは新漢の交代期の光武帝劉秀(りゅうしゅう)のやり方を真似たものでした。こうして共産党軍は、湖南省、江西省、福建省、浙江省などに支配地を広げ1931年11月、江西省瑞金(ずいきん)に中華ソビエト共和国臨時中央政府を樹立。毛は主席(総理大臣)に就任します。

 

 

上海の共産党本部が毛沢東のやり方を批判、実権を失う

蒋介石

 

しかし、共産党の勢力拡大を国民党の蒋介石は黙ってみてはいませんでした。すぐに、湖南省、江西省、福建省、浙江省の四省に豊富な物量で反撃を開始、それに対して、毛沢東や朱徳(しゅとく)は、従来のゲリラ戦を主張しましたが、上海の臨時中央政治局は、その戦術を批判し、「積極的な攻勢に出て、国民党の包囲を解け」と無茶な要求を出します。

 

結局、毛沢東は中央の指示に従わないとして地位を追われ、軍権も奪われ、また、毛の主力の作戦だった土地革命も批判の対象になりました。1933年には、上海の臨時中央政治局は、拠点を放棄して、瑞金に移転し、党の指導部が毛沢東に代わり、作戦を指揮するようになりました。

 

 

毛沢東、史上有名な長征を行う

 

国民党の度重なる攻撃で中国共産党の軍事組織、紅軍は各地で敗戦を繰り返し、ついに拠点の瑞金を放棄して、1934年 10月18日大敗走を開始します。これは中国の歴史では長征と言いますが、とんでもない、ただの敗残兵の逃避行に過ぎないものでした。

 

この途中で、共産党では幾つかの動きがあります。第一には、それまで戦争を主導していたソビエト留学組の博古(はくこ)らが作戦失敗の責任を問われ降格させられ、代わりに周恩来(しゅうおんらい)が最高軍事指導者、張聞天(ちょうぶんてん)を党中央の総責任者とする新体制が発足いします。この中で毛沢東は、周恩来の補佐になりますが、老練な毛は周恩来から軍権を奪い、次第に影響力を強め、1935年8月19日、軍事上の最高責任者の地位に返り咲きます。同年、秋には拠点を陝西省延安に移し、自給自足の生活を送りながら、ゲリラ活動を展開していきます。

 

 

第二次国共合作、そして、日華事変

中華ソビエト共和国

 

 

毛沢東は、1935年12月7日、朱徳に代わって、中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会主席に就任して正式に軍権を掌握し共産党のトップに立ちます。その五日後、西安で起きた張学良(ちょう・がくりょう)楊虎城(よう・こじょう)らによる国民党総裁、蒋介石監禁事件で、毛はコミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結びました、これが、第二次国共合作です。

 

1936年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」になり、武力組織の紅軍は改称され「国民革命軍第八路軍」通称八路軍に改組されました。

 

1937年7月7日、日本軍と国民党の間で武力衝突があり、これが、日華事変に発展します、よく日中戦争と言われますが名称としては誤りでその証拠に日中双方とも宣戦布告をしていません。これは、宣戦を布告する事で同盟国以外から物資援助を受けられなくなる事を恐れた国民党の思惑と、宣戦を布告して侵略のレッテルを貼られる事を恐れた日本の暗黙の了解のようなものでした。

 

※国際法では交戦国の同盟国以外は、中立の立場を守らないといけない

 

毛沢東が率いる共産党に取り、日本と国民党の戦争はまさに漁夫の利でした。弱小の共産党は、日本との戦争は国民党に任せ、むしろ裏では日本とも繋がり八路軍が延安で栽培していたアヘン売買などで利益を得ていました。一方では、アメリカ、ソビエトから資金援助を受ける事で、共産党は、肥え太っていくのです。毛沢東は、日本との戦いに忙しい国民党を他所に、勢力の拡大を図り、1942年以後は、整風運動で自身に批判的な党幹部や知識人を粛清して共産党を私物化していき、来るべき、「戦後の戦争への準備」を整えていきます。

 

 

第二次国共内戦が開始される

 

日本の大東亜戦争(だいとうあせんそう)における敗北が決定的になった1945年5月、中国国民党は、戦後の中国の統治モデルを決定すべく第6回全国代表大会を開催し、中国革命の父、孫文が提唱した革命の第三段階である「憲政」に入ることを示し、そして、その「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにしました。

 

しかし、毛沢東は国民党主導の政治体制を不満に思い、同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で「連合政府論」を提唱、国民党案に同意できないという事を明確に表明し対立が明るみになります。毛沢東も戦時中は、基本、中国の代表政府である蒋介石国民党の権威に従っていましたが、戦争終結を目前にして、毛沢東はもはや、国民党の同盟者ではなく対等の立場の共産党という立場を求め、両者は、激しく対立を繰り返していきます。

 

毛沢東は、国共内戦は避けられないという考えであり、「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても満洲さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と内部では述べています。そして1945年、8月13日には、毛沢東は蒋介石との武力闘争を内部指示として発していました。

 

1945年、8月14日に日本政府はポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏、同年、8月30日、蒋介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平、統一について議論を重ね、10月10日に「双十協定」としてまとめられます。

 

「双十協定」の内容は、国民党が政治の民主化と政党の平等性などを約束、共産党も蒋介石国民党の指導下での統一国家の建設について承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認されます。

 

しかし、「双十協定」が調印されたその日、山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦、共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えます。さらに、同年の年末、降伏した日本軍の接収、管理のために国民党軍が満洲に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じます。

 

満洲には、日本が残した膨大な都市インフラがあり、これを制する事が、内戦を有利に戦う上で重要だったのです。

 

1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議が重慶で開催され、各党派の代表構成は、国民党が8議席、共産党が7議席、その他の政党、無党派が23議席に決まり、同会議では憲法改正案、政府組織案、国民大会案、平和建国綱領などが採択されました。

 

一強として批判を受けていた国民政府委員会の委員の半数が国民党以外に割りあてられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示してはいました。

 

しかし、国民党と共産党の溝は埋まらず、3月の党大会において、蒋介石は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議、こうして6月26日、蒋介石は指揮下の国民党軍将兵に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、ここに国共内戦が始まりました。

 

 

1949年、国民党を台湾へ追いやり、中華人民共和国が成立

毛沢東

 

蒋介石は、物量と優勢な兵力を活かして、面における八路軍の撃破を目指します。一方で八路軍は、従来通りのゲリラ戦術に徹し、拠点の延安を放棄し農村に隠れ、山に隠れ、国民党軍が侵入した隙を突いての点の攻撃で敵を消耗させ、一方で土地改革を復活させ、大地主から土地を奪い農民に分け与えていきます。

 

底知れない持久戦に加え、腐敗と汚職が続き堕落していた国民党は富裕層の支持を強く受けていたので、国民党は都市部では強くても、貧しい農村では憎悪の対象になっていました。圧倒的な農村人口は共産党を庇い、国民党には非協力的だったのです。それに加えて、共産党は、ソビエトからの援助が増額され、逆に国民党は、アメリカの親ソビエト勢力の妨害工作で、資金援助が減額されていました。

 

1947年9月、八路軍は人民解放軍と名称を変更、この名称は、現在でも変更されず受け継がれています。

 

1948年9月から1949年の1月に掛けて共産党軍が行った猛反撃、「遼瀋戦役」、「淮海戦役」、「平津戦役」の三大戦役は、国民党の優位を打ち砕き1949年1月には、北京が陥落、同年4月23日には人民解放軍は、国民党軍の首都である南京を陥落させます。

 

1949年11月、重慶(じゅうけい)を落とされた蒋介石は、僅かな残党を引き連れて、台湾へと落ちていきました。1950年まで、国民党との散発的な小競り合いは続きますが、事実上、ここに中国の支配権は中国共産党の手に落ちたのです。

 

 

当初は民主的だった中華人民共和国・・

中国

さて、私達のイメージでは、中華人民共和国というのは、一党独裁で、人権抑圧組織で、それが60年以上続いているという感じですが、建国当初の中華人民共和国はそうではありませんでした。中華人民共和国の臨時憲法「中国人民政治協商会議共同綱領」は、中華人民共和国が人民民主主義(新民主主義)国家であると定義し、国家の目標として新民主主義社会の建設を掲げ、共産党の指導や社会主義といった文言は一切盛り込んでなかったのです。

 

もちろん、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が据わったものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員で、副総理、閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めていました。

 

もっとも、毛沢東が資本主義国的な民主主義国を目指していたのか?というとそうではなく、ソビエトとの関係強化を図りつつ援助を引き出し、朝鮮戦争では、北朝鮮を支持するソビエトと歩調を合わせて、地上軍を送るなどソビエトべったりで、社会主義路線は将来の課題として毛沢東は意識していました。

 

朝鮮戦争の直前、毛沢東は中華人民共和国土地改革法を公布します。これは、以前中国共産党の支配地で行っていた土地改革の全国版ですが、今度は、一方的に地主から土地を奪うものではなく富農を保護し、同時に小作人の苛酷な搾取を禁じる政策だった為に、農業生産力は向上、同時期には工業力の増大も起こりました。

 

毛沢東は、同時に汚職、浪費、官僚主義の一掃を掲げて、三反運動、五反運動を開始しますが、これは、密告主義を奨励するものになり383万人という文民職員が密告や自己申告で批判にさらされ、20万人とも言われる人々が自殺する大規模なものになります。特にお金を持っている(と庶民には思われた)資本家が対象になり、戦後、折角、上り始めた商工業が没落する契機になりました。このような汚職と浪費、官僚主義の追放運動の中でも、最高指導者、毛沢東一人は例外で贅沢の限りを尽くしていました。しかし、庶民は、厳しい運動に大いに溜飲を下げ、共産党政府は、信頼を向上させたというから世の中は分りません。

 

 

社会主義国家への急激な移行と反体制派の弾圧

 

当初は、穏健な新民主主義社会の建設に進んでいたかに見えた毛沢東ですが、1952年から、政策を一変させます、その急変は周恩来や劉少奇(りゅう・しょうき)のような部下を困惑させますが、毛沢東はお構いなしで1953年、1月からソビエトの五カ年計画にならい、ソ連型社会主義体制をモデルにした第一次五カ年計画を決定。

 

同時に国家体制の変革を行い、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会、通称全人代が置かれ、に全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定されました。

 

同憲法では、毛沢東が提唱する社会主義への過渡期論を盛り込み国家の目標として社会主義社会の実現が明記される事になります。毛沢東は憲法に基づいて国家主席に就任し国務院総理には周恩来が就任、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命されました。今回は以前とは異なり、国務院副総理十名すべてが共産党員で占められ、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少する事で、中国は社会主義国家へと名実共に大きく舵を切ります。

 

 

1956年、毛沢東は、スターリンの死後、後を継いだフルシチョフによるスターリン批判に衝撃を受けます。そして中国国内にも沈黙しているだけで、共産党に対する不満があるのではないか?と考えて「百花斉放百家争鳴」運動を展開しました。これは、在野の人々に対して、「共産党に対して不満があるなら、遠慮なく批判してくれ」という呼びかけでした。当初は、警戒心から共産党批判の声はあがりませんでしたが、共産党員の手で共産党に対する不満が出されると、徐々に在野でも、枯れ草を燃やすように激しい共産党批判、毛沢東批判の声が噴出してきました。

 

余りの反響に身の危険を感じた毛沢東は、急きょ方針を180度転換して、1957年、七月に反右派運動を開始して、共産党を批判する50万人を超える知識人を逮捕投獄しました。この鮮やかな反転から、毛沢東は当初から自身に批判的な人間を炙り出す目的で「百花斉放百家争鳴」運動を利用したのではないか?と言われています。

 

 

毛沢東、大躍進政策失敗、独裁に拍車が掛る

 

自分を批判する右派勢力を壊滅させた毛沢東は、大躍進と呼ばれる政策を開始します。説明すると長くなるのですが、売るほどある人力を利用して、鉄鋼や農産物を大々的に増産して、その生産力で、アメリカやイギリスを追い抜くという、聴くだけで目まいがしそうな杜撰な政策でした。

 

しかし、工業、農業のいずれにしても、それを指導する技師は足りず、農民は、ただ党の幹部の指示で、使い物にならない精錬度の低い屑鉄を作り、燃料の為の無茶な森林伐採で、自然災害を引き起こしていきます。中央でその成果を見る、毛沢東は自分の政策が失敗などとは思いません。処罰される事を恐れた共産党の党員達は嘘の報告書を送り、あたかも、生産率は上昇したかのように装いました。気を良くした毛沢東は、さらに生産目標を吊り上げます。そうすると党員達は処罰されない為に、さらに嘘の報告書を作成して実体の生産性と目標の生産性に絶望的な差が生じました。

 

そうなると党員達は、水増しした報告書の帳尻を合わせる為に、農民から農作物や鍋や釜のような鉄製品を供出させて間に合わせるようになっていきます。こうして、1958年から1961年に掛けての大躍進政策では、3000万から5000万という人間が人為的に起こされた大凶作により餓死してしまったのです。

 

 

大躍進政策の失敗の責任をとり毛沢東失脚・・

劉少奇

 

大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけ、1959年の4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ります。さらに、同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された廬山会議では、毛と同郷であった国防部長の彭徳懐(ほうとくかい)から大躍進政策の見直しを迫られます。

 

毛沢東はプライドを傷つけられ、彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清しました。

 

廬山会議以降、毛沢東は、自分に対する批判に抗うように、さらに強硬に政策を推進しようしますが、続ければ続けるだけ大躍進政策は飢餓を全土に拡大する事になり死者が続出、、誰の目にも、大躍進政策の失敗は明らかになりました。ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれます。これは毛沢東が生涯で唯一行った自己批判でした。この大会を機に、毛沢東の威信は低下し、中国共産党の主導権は、鄧小平(とう・しょうへい)、劉少奇のラインに譲られ、毛沢東は失脚を余儀なくされます。

 

 

権力への執着と文化大革命

文化大革命 wiki

 

鄧小平と劉少奇は、大躍進を修正し、資本主義の体制を取り入れた事で、大凶作を呈した経済状態は治まり、それが再び、毛沢東の威信を低下させます。70歳を迎えようとしていた毛沢東ですが、権力への執着は治まらず、鄧小平と劉少奇の修正路線を、「社会主義を危うくし、資本主義を擁護するモノ」と厳しく批判するようになりました。

 

失脚した毛沢東ですが、共産党による神格化は続けられ民族の英雄としての地位は揺らいでいませんでした。1965年、11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗(ごかん)が執筆した京劇戯曲「海瑞罷官」を批判した姚文元(とうぶんよう)の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞に掲載されました。

 

姚文元は、この戯曲を大躍進を進めた毛沢東を批判し、資本主義の犬である、彭徳懐を弁護するものだと主張。これが端緒となり、1966年5月、北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に学生達の党、国家機関に対する造反(反抗)が勃発します文化大革命の始まりです。

 

過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こします。毛沢東はそれを制止するどころか、過激派青年たちの暴力行為に対し、反抗には理由がある「造反有理」として積極的に支持しました。毛沢東は、この青年達の反抗を煽り、党における指導力を回復しようとしたのです。

 

 

8月5日、毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の壁新聞」と題する指示を「光明日報」に発表し、劉少奇打倒を示唆し8月18日には、自ら天安門広場に赴き、述べ1千万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動、「四旧打破」のスローガンを打ち立てます。

 

四旧とは、古い思想、(資本主義)古い文化、古い習俗、習慣の打倒を意味し、その攻撃対象は、地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女であり、当人達の性質や社会への関わり方は関係なく一律に攻撃されました。

 

紅衛兵運動は毛沢東の後ろ盾を得て、全国の学生ら、青年層に拡大、このようにして、劉少奇、鄧小平らを実権派、経済政策の調整、柔軟化を唱える党員は走資派(資本主義を取り入れようとする党員)修正主義者(フルシチョフのスターリン崇拝批判に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直し党官僚の力の強化を唱えた党員)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、「プロレタリア文化大革命」への流れが決定付けられる事になります。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられる事になります、本来、身分の上下を無くし平等を志向する筈の共産主義が、無謬の皇帝、毛沢東を生み出した瞬間でした。

 

 

毛沢東、政権に返り咲き、紅衛兵を農村に飛ばす

 

紅衛兵を中心とする文化大革命は、劉少奇、鄧小平を失脚させただけでなく、地主、富裕層、教師、知識人、反動とみなされた人々を次々に吊るし上げていきます。そして、おまけのように、貴重な中国の文化財が旧文化として破壊されました。文革による死者は40万人から数千万人と幅がありますが、1億人が何らかの被害を被ったという所に、その運動の破壊力の強さをみます。

 

この文革を利用して、毛沢東は再び、権力の頂点に返り咲きますが、1000万人を数えた紅衛兵は派閥毎に分裂して抗争を繰り返し、より過激な破壊活動に走るようになったために、毛は、人民解放軍を派遣して運動を抑え、文革に参加した学生達、1600万人を貧困農村へ流し農作業に従事させるようになります。

 

これを下放と言いますが、学業途中の青年が10年近く勉強する機会を奪われたのでその前後の世代との学力の格差が大きく開いてしまい現在も、その後遺症は中国社会に残っています。

 

こうして、実権派は政権から追放され、後には、毛沢東の妻で、文革の主導者、党中央政治局委員江青(こうせい)や文革の口火を切った姚文元(とうぶんよう)、そして林彪(りんぴょう)達でした。その中で林彪は、毛沢東の忠実な腹心でしたが、文革を推進する毛に対して、不満を抱き、最後には毛沢東暗殺を計画しましたが、発覚して脱走し、飛行機がモンゴル上空で墜落して死亡しました。文革は、毛沢東の予想を超えて、多くの実権派と呼ばれる指導者層を葬り、人材不足に直面した毛は、かつて自分が追放した鄧小平を呼び戻すなどライバルの復権を行わざるを得ませんでした。

 

 

アメリカとの関係修復

 

1972年、2月18日、毛沢東の名が最後に世界的に轟く日が来ます。資本主義世界の雄であり、中国共産党とは相いれない筈のアメリカのニクソン大統領が北京を訪問し関係改善を約束したのです。すでに毛沢東は78歳を迎え、筋萎縮性側索硬化症に罹っていましたが、動かない体を押して会見に臨み、東西冷戦で激しくいがみ合う共産圏と資本主義圏の国々を驚愕させました。

 

実は、当時、中国とソビエトは珍宝島事件などの領土問題で関係が悪化しておりアメリカも、米ソ冷戦下で優位に立つ為に中国を味方に取り込もうとしていました。

 

田中角栄

 

同年、最近、書籍でも話題の決断できる男、日本のv総理も北京へ飛び日中国交正常化を成し遂げていますが、台湾も中華人民共和国も、二つの中国を認めない立場だったので、日本は台湾との国交を断絶しています。

 

 

多くの負の遺産を残し、毛沢東死去

天安門 f

 

筋萎縮性側索硬化症に罹った毛沢東は、医師の懸命な治療を受けますが、高齢である事や、長年の喫煙の習慣により肺気腫から心臓病を引き起こします。さらに1975年には白内障も悪化、これは手術により回復しますが、毛はベッドから起き上がれなくなり、公に姿を見せる事もなくなります。

 

一方、妻、江青達、4人組を中心とする文化大革命は継続していて、文革によるこれ以上の破壊を喰いとめたい、実権派の鄧小平、副総理の周恩来達との水面下の対立は激しくなっていました。

 

1974年、周恩来が膀胱ガンに倒れ、執務できなくなると、毛は鄧小平を第一副首相に任命し、周の仕事を代行させます。1975年1月からは、鄧小平が事実上、中華人民共和国のトップになりますが、文革路線からの修正を図る鄧に対して、4人組は猛反発、判断力の低下した毛沢東も、4人組を支持して鄧小平を批判するようになります。

 

1976年1月8日、周恩来が闘病の末死去、その死を悼んで、文革の中止と4人組を批難する群衆2万人が天安門に集まる事態になります。当局は混乱を収拾する為に、周に捧げられた花輪を撤去するなどしたので、逆に群衆の怒りに火をつけ、職場のボイコットなどが発生します。これを第一次天安門事件と言います。これらの事実は、4人組によって曲げて毛沢東に伝えられ、反革命を恐れた毛は、鄧小平を再び解任して弾圧に入ります、、しかし、1976年、9月9日、毛沢東は北京の中南海の自宅で危篤状態に陥り、間も無く死去しました、享年82歳でした。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

毛沢東の死後、4人組は後ろ盾を失い、軍部や官僚の支持を得て復権した実権派、鄧小平によって、追い落とされました。江青には人民裁判で死刑宣告が出ますが江青を批判すると、どうしても毛沢東に触れないわけにはいかず、実際には死刑は減刑され執行されませんでした。

 

中国共産党は、毛沢東の生前神格化に懲りて、以後は党による主導に移行し、個人崇拝を奨励しなくなりましたが、現在でも、毛沢東を公に攻撃する事はタブーとされています。kawausoの見る限り、毛沢東は中華人民共和国建国から大躍進政策の前までが許容範囲で、それ以後は、権力にしがみつく強欲な老人にしか見えません。皆さんは、どのように考えますか?

 

 

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