百年戦争の初期にイギリスを率いて、フランスに勝ち続けたエドワード黒太子。
今回は百年戦争で、圧倒的な強さでフランスと戦ったエドワード黒太子について紹介します。
この記事の目次
イギリスの王太子・エドワード
エドワード黒太子は、フランスのフィリップ6世に挑戦状を叩きつけたイギリスのエドワード3世の子供で、百年戦争の初期に活躍しました。
百年戦争が開戦されると父エドワード3世は、イギリスを留守にすることが多くなり、その留守の間、まだ13歳のエドワード黒太子がエドワード3世の代理を務めました。この功績により、正式な後継者として認められ王太子なりました。
王太子とは王位継承の第一順位の王子を指します。
常勝将軍・黒太子
エドワード黒太子は、16歳で戦争に参加します。
その強さは圧倒的なもので、エドワード黒太子が参加した戦いのほとんどを勝利で飾っています。
特に、ポワティエの戦いでは、イギリス軍9,000に対しフランス軍18,000の不利な状況から、巧みにフランス軍を誘い出して矢を射かけ、さらには背後や側面からの奇襲で打ち破りました。
これにより、当時のフランス王ジャン2世を捕らえることに成功し、大勝利に結びつけました。
この戦いで、百年戦争でのイギリスの勝利は決定的になり、イギリスは「フランス王位を放棄する代わりにフランスの一部を統治する条約」、ブレティニ・カレー条約を結びます。
これにより、百年戦争は一時休戦状態になりますが、さらなる領地拡大を目論むイギリスとそれを阻止するフランスとの小競り合いは続きます。
エドワード黒太子を三国志で例えると誰?
エドワード黒太子を三国志で例えると、三国志最強と言われる呂布(りょふ)にあたります。
あの曹操すらも殺すのを躊躇うほどの強さを持っていて、戦場に現われるだけで敵を震え上がらせたほどです。
エドワード黒太子もまた負け知らずで、その存在がフランス軍を恐怖に陥れます。
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エドワード黒太子が常勝していた理由
また、エドワード黒太子が常勝していた理由のひとつに、弓の違いが上げられます。
当時のフランス軍は、三国志でもお馴染みの弩を使っていましたが、イギリス軍は長弓を使っていたのです。
弩はクロスボウと同様に、機械的に矢を発射する弓で、命中精度や誰でも扱える所に長所がある一方で、矢の装填に時間が掛りました。
長弓は普通の弓矢と大きな差はありませんので、使用者の訓練次第で命中精度や扱いに差がありましたが、矢の装填に必要な時間が圧倒的に速いのが特徴です。
この装填時間の差が大きく戦況に影響していたのです。
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黒太子の暗黒面
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王太子であり、常勝将軍であるエドワード黒太子には、輝かしいだけではなく残虐な面もありました。
エドワード黒太子は、圧倒的な強さを誇って何年にもわたり戦争を繰り返していました。
百年戦争当時の戦争スタイルは、傭兵を雇って指揮をするのが一般的であり、傭兵を集めるのに多額のお金が必要になりました。
また、豪勢な暮らしを好んでおり、財政状態は破綻していたのです。
この財政状況を再建するために、ブレティニ・カレー条約により支配権を得ていたフランス領に対し、重税を課しました。
エドワード黒太子の暗黒面はこれに留まらず、
イギリスが統治していたフランスの都市であるリモージュでは、さらなる残虐性が顔を覗かせます。
この時のエドワード黒太子は黒死病(ペスト)に侵されており、戦争に参加できない状況にありました。
これを良いことにフランス軍は次々に、イギリスから領地を奪還していきます。
リモージュもあっけなくフランス側に寝返りました。
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