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頑固な皇女和宮![家茂への深い愛]

2024年10月18日


 

和宮(かずのみや)は、幕末に幕府と朝廷との公武合体政策(こうぶがったいせいさく)犠牲(ぎせい)になり14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)の正室になった薄幸(はっこう)の女性として知られています。それだけ聞くと、いかにもお嬢様で自分の運命を(はかな)みつつも流されてばかりこのようなイメージですが、実はそうでもなく中々頑固(がんこ)(しん)の強い女性でした。今回は、和宮の見方が変わる頑固エピソードを紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1846年に仁孝天皇の第八皇女として生まれる

 

和宮は、1846年120代天皇の仁孝天皇(にんこうてんのう)の8番目の皇女(こうじょ)として誕生しました。母は側室の橋本経子(はしもとつねこ)で兄の孝明天皇(こうめいてんのう)とは異母兄弟(いぼきょうだい)になります。生まれた時には、すでに父、仁孝天皇はなく誕生してからは勅命(ちょくめい)で、生母経子の実家、橋本家で養育される事になります。1851年、5歳の時に孝明天皇の命令で有栖川宮熾仁親(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。このまま、何事もなければ和宮は歴史の表舞台に出る事もなかったでしょう。

 

 

井伊直弼公武合体の途中で桜田門外の変に倒れる

 

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督が来航します。鎖国を解いて通商を求めるペリーに幕府は困惑してしまい、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)が異例の意見聴取を大名や庶民に求めます。これにより、ずっと譜代大名(ふだいだいみょう)の独占物だった幕府の政治に対して、外様大名(とざまだいみょう)親藩大名(しんぱんだいみょう)が口を挟む事態になりました。

 

1858年、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)の締結を巡り、自信がない幕府は天皇に対して、老中を遣わし条約を結んでもよいかと打診したのですが、孝明天皇は自分の代で外国と通商を結んでしまう事に躊躇(ちゅうちょ)しそれに加えて外国嫌いだった事もあり、許可は下りませんでした。

 

 

切羽(せっぱ)詰まった幕府は、ついに許可を得ずに条約を無断で締結。昔ならば何の問題もなかったのですが、天皇に伺いを立てたのが仇になり尊攘派(そんじょうは)の大名は条約を結んだ大老、井伊直弼(いいなおすけ)に対し天皇を無視したと攻撃。井伊もこれに対して反撃に転じ、安政の大獄(あんせいのたいごく)を起こし尊攘派を弾圧します。しかし弾圧は大きな恨みを買い、井伊も桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)に倒れました。これ以前、井伊直弼は弱体化した幕府の権威を復活させようと孝明天皇の皇女と14代将軍徳川家茂を縁組させようとしていましたが成就する前に、凶刃に倒れてしまったのです。

 

 

井伊が亡くなり権威が落ちた幕府は公武合体を推進する

 

井伊大老の死はあべこべに幕府の権威を落としました。それにより後継老中の安藤信正(あんどうのぶまさ)久世広周(くぜひろちか)はさらに公武合体を推進します。もはや、幕府権力の正当性の源泉である朝廷にクリンチする以外には、幕府の存続は難しいと考え始めたのです。

 

※クリンチ:ボクシング等で相手に抱きつき体力を回復させる方法

 

しかし、孝明天皇の皇女は、まだ幼く適当な婚姻相手がいません。そこで、幕府が目を付けたのが天皇の異母妹であった和宮でした。もちろん、孝明天皇はこの提案に以下のように難色を示します。

 

①すでに和宮は有栖川宮熾仁との婚約が内定している。

②和宮は異母妹で自分の子ではないので強制できない

③年少の和宮が関東に行くのを嫌がっている

 

 

幕府は諦めず執拗な和宮降嫁を要求する

 

ところが安藤と久世等、幕府サイドは諦めませんでした。和宮は当時14歳、将軍家茂と同じ年齢であり幼少ではありません。やや若くはありますが、ビジュアル的にも年齢が釣合う両名が婚姻するのは幕府と朝廷がしっかりと手を握る事をPRする政治的効果がありました。意地悪な言い方をすれば、幕府にとっての和宮の価値は年齢だけです。

 

そこで、幕府は和宮の生母である観行院(かんぎょういん)や伯父の高橋実麗(たかはしさねつぐ)に働きかけると共に朝廷に対して、執拗に和宮降嫁(こうか)を要求し続けました。つまり、公武合体の実とは将軍家茂と和宮の結婚にこそ象徴的な意味がありこれが出来ないなら、10年以内の攘夷の約束も実行できないとしたのです。

 

孝明天皇は、そう言われて困ってしまいました。「幕府には攘夷は決行して欲しいし、妹に無理強いも出来ないし」しかし、ここで幕府に説得された高橋実麗が何事も天皇の意に従うと折れます。和宮の伯父が賛成ならと孝明天皇は、侍従の岩倉具視に意見を求めます。

 

 

ここで岩倉は「幕府に対し諸外国との条約を全て破棄させる事を絶対条件に和宮の降嫁を認めてはいかがか?」と述べます。孝明天皇は、幕府が必ず攘夷を実行する事の確約を求め幕府は同意します。かくて孝明天皇は公武合体の為、和宮を犠牲する苦渋の決意をしました。

 

 

兄妹バトル開始、和宮絶対に嫌!

 

一般的には、ここで和宮が「よよよ・・」と泣き崩れながら故郷、京に別れを告げるそのような流れでしょうが実際は違いました。

 

1860年、8月7日、和宮は宮中に参内し自分の口で家茂との縁組を拒否したのです。面食らった天皇ですが、すでに幕府には和宮を降嫁させると連絡しています。今更、和宮が反対したから出来ませんとは天皇の立場上言えません。そこで、天皇は久我健通の進言を容れて以下のように決意しました。

 

①和宮がどうしても降嫁しないなら昨年生まれた皇女、寿万宮(すまのみや)を降嫁させる

②その場合、(ちん)は約束を(たが)えた責任を取り退位し和宮は尼寺に入れる

 

ヒドい話です、孝明天皇が約束を守れずに退位するのはいいとしても、勝手に話を進められただけの和宮が、天皇と共に責任を取り尼になるのです。もちろん、尼さんになれば有栖川宮と結婚も出来ません理不尽です。

 

「朕も退位するが和宮、お前も当然、道連れじゃぞ!」うっわー完全な恫喝じゃあないですか・・さらに、一度は幕府の説得で天皇の命に従うと言った和宮の伯父の高橋実麗や和宮の生母、観行院も和宮に泣きつかれたのか、再び降嫁反対を表明します。

 

 

怒った天皇は、幕府に対して高橋実麗と観行院を処罰するように依頼し、もし、和宮が降嫁の話を蹴っても絶対に有栖川宮と婚姻など認めないから結果、和宮は尼になるしかないと手紙に書いているそうです。実母や伯父が自分のせいで処罰されるとなれば、いかに頑固な和宮でも意地を通すわけにはいかなくなります。こうして、泣く泣く和宮は有栖川宮との縁談を解消し徳川家茂に嫁ぐのです。

 

 

降嫁について和宮は幾つも注文をつける

 

渋々、縁談を受けた和宮は降嫁について条件をつけます。それは、父である仁孝天皇の年忌には必ず出席させる事や、大奥に入っても、御所風のしきたりは変えない事、御所の女官を御付きとして連れて行く事などで、つまりは江戸に行っても、京都で過ごしたように過ごしたいそういう事でした。

 

幕府は、一も二もなく承諾します、和宮さえ嫁に来れば、こっちのものそういう打算があったのでしょう。条件を守るつもりなど、あまりなかったようです。このいい加減な幕府の対応がさらなるトラブルに繋がります。

 

和宮は孝明天皇の宣下(せんげ)を受けて、内親王となり和宮親子(かずのみやちかこ)の名を与えられます。こうして、1861年10月20日、和宮は桂御所を出発、川留めによる日程の遅延や尊攘派による襲撃を恐れて中山道(なかせんどう)を通って江戸に向かいます。行列は50キロにも及び、警護や人足を含めると人数は3万人御輿(みこし)の警護に12藩、沿道の警備には29藩が動員される空前の大行列になりました。

 

 

ほとんど必然、大奥で篤姫と和宮の嫁姑バトルが勃発

 

行列は1か月後の11月15日に江戸の御三卿(ごさんきょう)清水邸に入りますが、そこから江戸城本丸に入ったのは、12月11日でした。どうして、江戸に入ってからこんなにかかるのか?理由は幕府が和宮の要求した御所風の生活という条件をなあなあで処理しており、それが表面化したからです。大体、和宮の要望通りに大奥を御所風に造り変えるとなると、何万両もの金と時間が掛かり、おいそれと出来る事ではありません。当時の大奥は、家定(いえさだ)の死後に落飾(らくしょく)して天璋院(てんしょういん)となった篤姫が仕切りますが、幕府は、ちゃんと連絡していなかったようでゴタゴタしたのでした。

 

 

和宮は「部屋が御所風ではない!父の年忌にも帰れない!」と嘆き不満ブーブーお付きの侍女が京都に手紙を出して、トラブルは天皇を巻き込む事になります。孝明天皇は約束の遵守を幕府に求め責任者を京都に呼ぶように命じ、幕閣は「不届きをお許しください」と平身低頭するばかり・・

 

 

天璋院「なんじゃ、この嫁は生意気な女ぢゃ!」

 

篤姫が和宮を生意気な女ととらえたのも仕方なく、和宮が挨拶に来ても、上座に座り、目も合わせず口も聞かず無視した事もあるそうです。

 

さらに、江戸城では異例の事が起こります。1862年の2月11日、家茂と和宮の婚儀が執り行われたのですが、立場は内親王の和宮が上で家茂が下なので、天下の将軍が和宮に頭を下げるそういう形になってしまいました。これにも天璋院は不満でしたが、和宮も頑固で気が強い性格ですから、京都から連れてきた侍女達と団結してそれに対抗します。篤姫と和宮は、こうして険悪な関係になってしまいました。

 

 

頑なな和宮の心を溶かした徳川家茂

 

こうして、最悪の江戸ライフを泣いて暮らした和宮ですが、夫になった家茂は献身的に和宮を(かば)い不安を和らげる事に勤めました。実は、和宮の降嫁が決まった頃、世の中には「将軍家は和宮を人質に取って天皇を脅迫するつもりだ」という噂が駆け巡っていたそうです。

 

孝明天皇は噂を憂慮し、和宮を決して粗略に扱わないという誓紙(せいし)を書きなさいと幕府の要人に求めていました。当時の幕閣(ばっかく)はこれに署名しますが、その中に将軍家茂の誓紙もありました。家茂は少年ながら誠実な人物であり誓紙に書いたように「和宮を生涯粗略(そりゃく)にせず大切に扱う」と心に誓ったようなのです。まさに誠意の(かたまり)誠意大将軍(せいい・たいしょうぐん)ですが、家茂は事ある毎に和宮に贈物をし江戸での悩みを聞いてやり、出来うる限り不安を取り除こうとします。頑固で気が強いとはいえ、15歳になったばかりの和宮は、理不尽な運命に翻弄され続ける自分を分かって欲しかったのでしょう。次第に和宮は、家茂に心を開き二人の関係は円満になっていくのです。

 

 

また、和宮も家茂も大の甘いもの好きだったらしく、二人でいる時には、カステラやら金平糖(こんぺいとう)やら饅頭(まんじゅう)やらをバクバク食べて楽しい時間を過ごしたのかも知れませんね。姑である篤姫の悪口を言いまくる和宮と微笑みながら聞いている家茂そんな平和な日々も二人にはあったかも知れません。

 

 

家茂、京都に呼びつけられる

 

時代は動いていました、幕府が着々と朝廷との公武合体を進める中で、尊攘派は巻き返しを図るように、幕府は攘夷を実行せよと求めていきます。幕府としても和宮を強引に降嫁させた条件が攘夷の実行である以上、少なくとも表面上「そんなの出来ませんよ!」とは言えません。

 

1863年に入ると、攘夷の実行を叫ぶ声は無視できない程に激しくなり公武合体を推進した公卿(くぎょう)が次々と隠居(いんきょ)に追い込まれ、宮廷も尊攘派の公卿が主力となり将軍家茂を上洛させて「攘夷の期限を決めさせよう」と運動を開始します。

 

 

こうして攘夷派の急先鋒(きゅうせんぽう)である二人の公卿、三条実美(さんじょうさねとみ)姉小路公知(あねこうじきんとも)が江戸に入り家茂に対して直接、天皇に攘夷の実行について説明を行うように命じます。この要求を幕府は無視できず、ついに家茂は天皇に呼びつけられる形で、上洛する事を約束しました。

 

これは230年ぶりの事であり、幕府と朝廷の権力が逆転した事を示す象徴的な事件です。1863年の2月、家茂は天皇に攘夷を説明すべく上洛します。しかし、当時の京都は尊攘派のテロリストが跋扈(ばっこ)する無法地帯、将軍の身を案じた和宮は増上寺(ぞうじょうじ)の黒本尊のお札を勧請(かんじょう)し、さらにお百度を踏んで家茂の無事を祈りました。お百度とは、同一の寺や神社に百度参拝して願をかける行為でかなり大変な事です。和宮がいかに、夫家茂の身を案じたかが分かりますね。

 

 

また、この時に家茂が海路を使うと聞いた和宮は、びっくりして「海で万が一の事があっては困るどうか陸路にして下さい」と頼んでいます。内陸の京都で育った和宮には海は未知で脅威(きょうい)だったのかも知れません。京都についた家茂は、守れる筈もない5月10日を期限とした攘夷の実行を約束させられますが、孝明天皇は誠実な家茂をとても気に入ったそうです。尊攘派は予想外の展開にガッカリしますが、家茂は特に危ない事もなく、6月16日に江戸に帰りました。

 

 

将軍家茂、第二次長州征伐に出陣、永遠の別れとなる

 

しかし、その後、京都では天皇の勅命を偽造して乱発する過激な長州藩に対し孝明天皇が不快感を示し、会津藩主(あいづはんしゅ)で京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)排除(はいじょ)を命じた事から一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)と松平容保と薩摩藩が中心になり、藩兵を動かして八・一八の政変を起こします。

 

これにより長州藩兵は御所の警備を命じられ、同時に長州藩に近い、過激な尊攘派の公卿七名が京都を追放されて長州藩士と共に山口へと落ちていきました。この事件を七卿落ちと言います。

 

ところが、これに納得できない長州藩が暴発、兵力を率いて天皇に弁明すると上洛を開始これを許さない一橋慶喜と、西郷隆盛(さいごうたかもり)、松平容保が藩兵を率いて御所を警備。ここに禁門の変(きんもんのへん)が勃発し、京都は2万戸以上の民家が焼ける大惨事になります。幕府は御所を攻撃した長州藩を懲罰する為に第一次長州征伐の軍を起こしますが、戦う力がない長州藩は、御所を攻撃した責任者を処刑して恭順(きょうじゅん)しました。

 

 

しかし、長州藩の処分を巡り幕府がグズグズしている間に長州藩で政変が起き倒幕派の高杉晋作(たかすぎしんさく)恭順派(きょうじゅんは)を追い落として再び長州藩が尊攘派に転換します。怒った幕府は、徳川家茂を総大将にし、今度こそ長州をひねりつぶそうと第二次長州征伐を起こしました。

 

1865年5月16日、将軍家茂は大奥対面所で和宮の見送りを受けます。この時、家茂は心配性の和宮を気遣い、「宮は何を土産に欲しいか?」と聞き、つとめて楽勝で観光のようなものだと印象付けようとしました。これに対し和宮は「懐かしい京の西陣織が欲しい」と告げます。それが二人の今生の別れになりました。戦争は年をまたいで続き、戦況も思わしくなく大阪城を本陣にした家茂は、1866年の4月には脚気が悪化して食事も摂れなくなります。

 

家茂の病状を聞いた和宮は湯島の霊運寺に祈願し、一向に治療の効果がない蘭方医(らんぽうい)から漢方医に医師を変えるように指示し、江戸から医師を派遣、孝明天皇も典薬寮(てんやくりょう)から漢方医を派遣しました。しかし、その甲斐なく家茂は7月20日に大阪城で病死します21歳という若さでした。

 

 

家茂の死後、徳川を守り抜いた和宮

 

家茂の死の悲しみを乗り越えて、和宮は徳川を守る為に奮戦します。次期将軍は、家茂が田安亀之助(たやすかめのすけ)を指名していましたが、和宮は僅か3歳の亀之助では政務は取れないと一橋慶喜の15代将軍就任を認めました。

 

やがて、大政奉還(たいせいほうかん)から王政復古(おうせいふっこ)を経て、鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いが起こると、和宮は朝廷とのパイプを使い、侍女を派遣して徳川家の存続を繰り返し願い徹底抗戦を唱える幕臣たちに対しては、「今は恭順(きょうじゅん)・謝罪の態度を貫く事が、徳川を守る事に繋がる」と説得しました。この頃には、(しゅうと)の篤姫とも打ち解けて、共に事態の解決に当たります。江戸城の無血開城は、征討軍の主力の薩摩や朝廷にパイプを持つ篤姫や和宮の力なしには出来ないものでした。そして、嫌々徳川家に嫁いだ和宮が、こうまでして徳川を守ろうとしたのは、やはり自分を大事にしてくれた家茂への愛が大きな動機だったのではないでしょうか?

 

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

夫である家茂の死後、まるで形見のように家茂が京都で買った西陣織(にしじんおり)が届きます。それを見た和宮は悲しみ、「空蝉(うつせみ)の 唐織(からお)り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ」と和歌を詠みました。見事な織物も見てくれるあなたがいればこそ、あなたのいない今は、ただ、空しいだけですという意味です。

 

ここには、深く家茂を愛していた和宮の落胆する心が現われています。和宮は攘夷決行を約束に徳川家に嫁いだだけあり、生涯外国嫌いで、慶喜にも、一刻も早い攘夷の実行を迫り黙殺されたり、将軍家茂の肖像画を貰った時でも、家茂が陣羽織(じんばおり)姿だった事から「異人の真似をしている肖像画は嫌だ」と書き直しを要求しているそうです。こういう所は、変わる事なく頑固でワガママなんですね。

 

そんな和宮は1877年、脚気を悪化させて31歳で亡くなりました。とても甘いものが好きだった彼女は、奇しくも夫と同じ病気で亡くなり「家茂の側に葬って欲しい」の遺言の通り増上寺の家茂の墓の隣に葬られています。どこまでも家茂を愛した和宮らしい最期でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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