広大な国境線を持つ中国の場合、守るというのも大がかりな組織が必要でした。大規模な敵の侵略に対して、初動が1日遅れるだけで、致命的な敗北を招くので、各群雄は、情報伝達ネットワークを整備し、前線からの報告に神経を尖らせました。
その時に使われた通信の最小システムが烽侯(ほうこう)でした。
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烽侯とは、最小にして最も重要な情報伝達装置
烽侯は、烽火や旗、伝令を使って、本国まで情報を伝達するシステムであり、もっとも最小にして、もっとも重要な役割を持っていました。その姿は上記のイラストのようなもので、小高い丘の上に烽火台があり、情報の種類や、天侯、昼夜によって、旗を掲げたり、烽火をあげたり、火を焚いたり、伝令を走らせたりしました。
ここには、燧(すい)長をリーダーに、燧吏が1~3人、燧卒が2~6人いて、総数は10名~15人前後という小さな組織です。烽侯の設置の間隔は、平均1~2キロ、長くても5キロで、隣の烽侯まで情報を伝達し、それを繰り返す事で、本国まで情報を届けました。
烽侯は最小の砦としても機能した
基本的には、情報伝達所であった烽侯ですが、自らの任務を維持する為に高い塀に囲まれ、濠や逆茂木や、マキビシを周辺に配置した砦の性格を持ち、烽侯の構成員は弩を標準装備で持っていました。ただ、人数が少ないので、基本は防御に徹し、転射(射撃スリット)などの防御器具を使ったり、連梃という二つの棍棒を縄で繋げた武器や、木の先端を研いだ槍などを使って防衛しました。しかし、鉄鎧で武装した燧長と異なり、燧卒は、徴発された農民兵なのでそんなに強くは無かったようです。
つまり、本国としては、敵が襲来した事を知らせる所まで持てば善しと割り切られていたと考えられます。
烽侯の信号の種類
烽侯の信号の種類には、烽(ほう)、表(ひょう)、煙(えん)苣(きょ)、積薪(せきしん)の五種類がありました。まず、烽は、旗状のモノで布製と絹製があり、点火されたあとに、烽火台の上に備え付けられた駕籠付きの跳ねつるべで掲げられました。この烽は昼間に伝われたようです。
次は表と言い、布の旗で、こちらは燃やす事はありません。昼間に掲げて、情報伝達に使用しました。3番目の煙は、文字通りの煙で、烽侯に供えられた竈(かまど)で狼の糞などを燃やし高い煙突から煙を挙げました。こちらも昼間に使用されましたが、特に煙では狼の糞が好まれました。その理由は、狼の糞は、風があっても流れず、まっすぐに上がるからで、故に、のろしは狼煙とも書くのだそうです。次の苣(きょ)は、松明の事で、大きさは2メートルから70センチまであり、夜間に使用しています。最期の積薪は、薪を積み上げて燃やす事を意味し、こちらは昼夜を問わず、使用されたそうです。
悪天候では、伝令を飛ばす事もある
しかし、悪天候の時には、旗も炎も、煙も意味を成さないので、烽侯からは、伝令を飛ばす事になります。伝令には、煙や炎では、伝えきれない詳細な情報を伝える役割もあり、烽侯の周辺に駅伝も整備し、常に新しい馬と人員を配置して、早期に情報を本国にもたらすように工夫してありました。
西暦214年、劉備(りゅうび)は益州を陥れると、北からの侵攻に備えて、白水から成都までの駅伝をただちに整備しています。
関羽が呂蒙(りょもう)に敗れたのは烽侯のネットワークを断たれた為
219年、荊州南郡の関羽(かんう)が呉の裏切りにギリギリまで気付かなかったのは孫呉が偽装工作で、蜀漢が国境に敷設した烽侯に潜入して制圧し、ネットワークを遮断してしまったからとも言われています。
呉兵は蜀兵に成り済まし、常に「異常無し」の信号を送り、それを本国の関羽も信じ込んでいたという事なのです。小さな烽侯ですが、これを敵に握られるのは、自身の耳と目を塞がれるのに等しくさしもの豪傑、関羽も敗北を回避できませんでした。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志の群雄達の目と耳の役割を果たした最小だけど最も重要な情報システム、烽侯について紹介してみました。三国とも烽侯と駅伝の整備には、熱心であり、その維持と整備に相当な神経を使っていた事が分かってもらえたでしょうか?
※こちらの記事は、三国志軍事ガイド 篠田耕一 113pより執筆しました。
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