ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。
三国志といえば魏の「曹操」、蜀の「劉備」、呉の「孫権」が覇権を巡って争ったことで有名ですが、実はこの中で曹操だけが仲間はずれなのです。理由は、「曹操だけは皇帝に即位していない」からです。
劉備や孫権とは比べものにならないくらいの勢力を築いた曹操ですが、自分自身が皇帝になろうとはしなかったと伝わっています。むしろ重臣の夏候惇や陳羣などが皇帝に即位するように決断を迫ったくらいです。曹操が皇帝に即位していたら何が変わったのでしょうか。
実は呉の孫権も勧めている
孫権は関羽を討つために曹操に書面を送り、臣従を誓っています。曹操はこのとき「魏王」でした。孫権は対等の同盟を結ぶ資格を有していませんでした。さらに孫権は曹操に媚びへつらうかのように、曹操には天命があると説いています。
孫権としてもなぜ曹操が皇帝に即位しないのか理解に苦しんでいたのかもしれません。漢王朝の臣下である曹操に臣従するということにも、孫権は納得がいかなかったのでしょう。曹操ほどのカリスマと実力があるのであれば、孫権は曹操が皇帝に即位したら本気で全面降伏していたかもしれません。
そのような書面を堂々と送り付けていることから、孫権が漢王朝に見切りをつけていたのは間違いない事でしょう。
曹操のためらい
孫権の書面を受けて曹操は「このガキは俺を炉火の上に着せしめんと欲しているな」と笑いました。意味は火徳をして王朝を開いた漢の上に座る。つまり王朝を簒奪するということと併せて、火の上ですからやけどする可能性を語っているのです。
曹操は皇帝に即位した後のこともしっかり考えていたということでしょう。この後、曹操はもし自分に天命があるのであれば、「周の文王」となろうと答えています。子の代で王朝を開くという意味です。曹操はやけどを恐れて皇帝即位をためらっていたのでしょうか。
曹操が皇帝即位
息子の曹丕が魏王となり、丞相となってから禅譲を受けているのですから、それ以前に曹操が禅譲を受けていても何ら不思議なことではありません。曹丕が皇帝として即位したら劉備も皇帝を自称するでしょうし、他国が独立するきっかけを与えることに違いはありません。状況は大きく変わったとは考えにくい話です。
曹操が禅譲を受けたら、儒家の名士たちがこぞって反対し、反乱を起こすでしょうか?
起こすのであれば曹丕が皇帝に即位したときにも起こしていたはずですね。正面切って反論できるのは荀彧くらいですが、すでに自害してこの世にはいません。曹操が皇帝に即位しても特に支障はないのです。問題はただ一つ、曹操の寿命が尽きようとしていたことだけでしょう。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
217年、218年あたりが曹操の皇帝即位のチャンスだったでしょうか。219年になると劉備と漢中を巡って戦ったり、関羽が攻め込んでくるので忙しくなりそうです。
220年1月には曹操は死去してしまいます。そう考えると、曹操の皇帝として君臨できる期間はわずかに2年か3年ですね。魏王朝が成立してあっという間に初代皇帝は崩御し、2代目の曹丕が皇帝に即位することになります。
混乱が起き、隙もできるでしょう。クーデターも各地で発生するかもしれません。自分の余命を考慮したとき、曹丕の代でしっかり建国した方が混乱は少ないように思えます。しかも父親の曹操も果たせなかった皇帝即位を成し遂げたことで曹丕の株は上がるでしょう。
その方が、より安定した王朝を築けるかもしれません。曹操としてはすべての選択肢の中で、周の文王と同じような立場で死去することがベストだと考えたのでしょう。確かにそれは正解だったかもしれませんね。ただし、息子の曹丕は自分を文帝としましたが・・・。
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