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【週刊文春も驚き】後漢時代のメディア事情はどうなっていた?後漢時代の立て札・扁(へん)

2016年4月29日


 

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朱霊

 

現在では、テレビ・ラジオCMなどで流される事が多い、政府や地方自治体の広報、これは、何も、現在の日本だけにあるのではなく、三国志の時代にも、立て札の形ですでに存在していました。

 

では、当時の広報には、どのような事が描かれていたのしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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立て札は、都市の至る所に設置されていた

曹植

 

さて、今でいう政府や地方公共団体の広報は、当時の言葉で扁(へん)と呼ばれていました。

 

それは、以下のような漢帝国の法律により設置されます。

 

郷、亭、里、市の目立つ所に大きく提示して住民全員に読ませる事
扁には胡虜(異民族の捕虜)の懸賞金を記載、扁は二亭ごとに一つ提示する事

 

 

この二つを見ると、扁は、一番小さな行政区の里から、里の共同体である郷、そして市場、さらには市場を獲得する交番所のような存在だった亭にまで、複数掲げられたという事が理解できます。

 

また、胡虜(こりょ)というのは、異民族の捕虜の事で、漢の土地を荒らした異民族は捕えて引き渡せば、お金を与えるという意味です。

 

この当時、異民族が国境を侵して、土地を荒らすというような事例はかなり多かったであろうというのが分かります。

 

貴重な社会情勢と庶民の窓だった扁

陸遜 劉備

 

三国志の英雄、劉備(りゅうび)は、西暦184年に、義勇兵募集の立て札を見て、兵を集めていますが、その劉備が見たのも、恐らく扁でしょう。

 

暴れる黄巾党008

 

黄巾賊が跋扈して、大乱になり正規兵では、間に合わない後漢政府は、扁を通じて、各地の都市に義勇兵を募集して、劉備や孫堅(そんけん)のような在野の士が決起したのでしょう。

 

そうして考えると、扁には、社会情勢と庶民を結び付ける、現在のメディアのような効果があったと言えますね。

 

参考:中国古代の貨幣 お金をめぐる人々と暮らし/182p~183p/柿沼陽平/2015年4月20日第二版/歴史文化ライブラリー395/

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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